『 外部は何もかもすっかり変ってしまったのだ。しかし、どう変ってしまったか、僕はそれを言うことができない。いったい、では、内部はどうなったのか。神の前で、僕たちはどう変ったのか。心の中で、神という観客の前で、僕たちはもう演技と行為をやめてしまったのだろうか。僕たちがもはや誰一人、自分の配役を知らないのは確かだ。僕たちは鏡を捜して、化粧を落し、虚偽を洗い、真実のままでいようとしている。しかしどこかにまだ、やはり僕たちが気づかぬ一つ二つの扮装が残っているらしい。僕たちの眉には一すじ引いた墨の跡が残っているかもしれぬ。僕たちは自分の唇がいくらかへの字に結ばれているのを忘れているかもしれぬ。だのに、僕たちは平気な顔で歩いているのだ。僕たちは真実な存在でもなければ俳優でもない。結局、僕たちは中途はんぱな笑いぐさでしかないのだ。』

(新潮文庫 246頁)

 

 

この箇所で、リルケは、「神の前で」と「神という観客の前で」を混同しているようだ。このふたつは異なる。「神」と「創造主」が異なるように。 無論、このように言うのは、ぼく自身の境位を確認するためであって、ここでリルケ自身が迂闊にも混同しているということではない。

 「神」は、予想されるのではない。「自我」が必然的に当面する、或る名づけ難いものなのだ。われわれは、神という観客の前で劇を演じる俳優ではない。審判者の前で、その意に沿うように言動する奴隷ではない。リルケも認めているように、そういう態度においては、「虚偽を洗い、真実のままでいようと」することは不可能である。孤独などどこにもない。そして孤独なくして「神」に当面することはない。この秩序は絶対的である。 無論、リルケの真意は、このような、人間の内部においてもの粉飾の告発にある。

 

それにしても、「外部(外界)は何もかもすっかり変ってしまったのだ。しかし、どう変ってしまったか、僕はそれを言うことができない。」とは、何という、ぼくの状況と符合する、リルケの書きぶりであろうか。