リルケは、こういう、「消滅的(ヤスパースのいう verschwindend な)『神』経験」では、満足しなかった、ということか。ヤスパースもそうであり、だからこその「歴史性」重視なのだ。これは共通しており、「歴史性」における実存的アクセントに関して、各々の特徴と差異が注目されるのだ。 

 

 

 

《子供のころからひっそり閉じこもりがちな僕は、すでに年もゆかぬ時分に一連の宗教的な体験を通って来たらしい。しかも神の姿がはっきりつかまれたと思うと、ほとんど同時にそれがすっかり打砕かれるというような激しさで。むろんそれが神の体験であったことは、ずっと後になって僕の懐疑時代に思いあたったことである。ここでも僕が、また最初の振出しから始めねばならなかったのは言うまでもない。その振出しに立って、僕は、自分一人で新しく取りかかるにしても、やはりママンがいてくれたら、と何度か思ったことだった。》 

 

(新潮文庫115頁)