読まれたらよいだろう。リルケの意識と感覚は みごとなものだ。名高い、「詩は感情ではなく経験なのだ」と述べる節の、つぎにある。ぼくもこれ(「第三者」)を告発したかった。すべて(の物語・歴史)を茶番にし、本質に沈潜させないのは、この「第三者」の導入なのだ。 

 

 

 

『マルテの手記』のような書は、論文のように理解しようとして読むものではないのはもちろん、物語のように筋を感情をもって辿るものでもない。「書と共に生きる」ことで自分の存在意識が改まり、自分の根源に目覚めるという、哲学的な効果が、具体的感覚叙述を了解的に経験することによって生じる、そういう書である。

 

 

 

〈否定的評価〉というのは いつも第三者だ。そんなもの無くなってしまうのがほんとうだ。