宅にあるジッド「田園交響楽」新潮文庫版の最初の見開き表紙ページに、鉛筆の極小文字で、つぎの覚え書きをぼくはしている。過去との出会いの記念にここにそれを記しておく。これを書いた当時の状況をぼくはまったく思い出さない。 

 

「'81 8/26

神への義務だと思って愛していたのが自分でも気付かぬうちに独占欲の愛になってしまっている。しかも本人は依然として義務の意識に基づいて相手に関わっていると思っているのだ。女性の洞察力はこのことをはじめから見抜いている。僕は何という決定的な時期にこの本を手に入れたのだろう。自分でもわからないが、内容も全く知らない偶然に目についたこの本に、自然に手が伸びたのだった。 

 ジッドの、人間への洞察力に感嘆する。文学者こそは最も偉大な人種だ。敢えて愛そうとする義務的な関わりさえも、結局は専有欲に、根元のところから変質してゆくのだろうか。」 

 

 

 

ぼくに、「神への義務」から愛そうとする時期があったのだろうか。思いだせないが、いまなら、なんと本末転倒なことか、とおもう。最初に具体的な相手への愛があるのであって、この愛のなかで、この愛の運動のうちに、「神」は直面されるのだ。具体的な愛の経験もない段階での神への志向など、観念的な偽善にきまっている。

 具体的な愛は、高次の自分―魂としての自分―への愛でもよいのだ。そういうものもなく、神学からはじめてはならない。