本を読むことを否定しているのではない。ぼく式のイロニーなのだ(ヤスパース「絶対的意識」参照)。 

 

「創造主のために、われわれはすっかり不信心になっているけれども、創造主への期待ではない、神への祈りを、悩みと苦のある者は復活させよう。」 この節より。 「神と創造主」の主題枠に入れる。

 

「こういうことを記すことでぼくは自分を彫り、公表することによって、存在とする。この欄はそういう場として仕事の場(アトリエ)なのだ。」(同)

 

 



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文字の書物はけっして人間を幸福にはしない。執筆の鬱屈からジャン=ジャック・ルソーを救ったのは、植物学への熱中であったことは、彼の告白しているところである。「文字は情念に近すぎる。遠くを見よ」、というアランの言葉はよく知られている。デカルトは文字の学問を捨てて自分という世界を分析する道に決断したことで、思想の歴史を変えた。ぼくも、文字を通しての想念のぐちゃぐちゃをきれいさっぱり自分から拭い去りたいといつも思っている。 なにより余計なことを書こうとする思いに駆り立てられずにすむ。  文学者も、ときにはよいことを書くだろうさ。ときには であって、そのほかのたいていの時間は、彼は想念というスモッグのなかに住んでいる(それを文字にしている)あわれな人間である(読む側としても、ごもっとも、ごもっとも、で頁を繰ってゆくほど退屈なことはない。いっそ何も知らないほうがよい位。二割の感動のためにあとの八割の時間の浪費を強いられる)。ときに書くよいことのために彼は尊重されているのだが。  

 

 

 

「思想」にたいする「生命」(生きる)の圧倒的優位をロマン・ロランは 『クリストフ』で主張した。   

 

 

 

並の小説なら、どんなにしたってぼく自身の生の充実と深みにはかなわない。並の、というより小説そのものが と言ってよい。 自分の生に沈潜させる書物がいちばんありがたい。 そういうものは、哲学的随想であることが多い。   

 

 

ぼくが物語を読む動機は、愛するひとと世界を共有したいという気持であることがもっとも強い。 でなければ、ぼくの生そのものにおいて愛するひとと一緒であることから物語へぼくを引き離すいかなる欲求も ぼくのなかに生じるはずはない。 ぼくは、俗物たちが自分の生を純粋に生きられないので小説の世界に生きようとすることにいかなる共感ももちえない、自分自身の生を純粋に生ききることのできる人間なのだ。 並の小説家はぼくより純粋であることはないのに、そういう者のつくる世界にどうしてぼくが普通関心をもちえよう。 

 

そのなかに生きることのできる書物と、対決しなければならない書物とがある。理屈・理論の問題ではない。

 

 

リルケの『フィレンツェだより』を再読しよう。 そのなかに生きることのできる(ぼくに連れ戻してくれる)書物である。    

 

 

 

集合容喙も、すっかり 「すこしうるさいおせっかい手助け」みたいになり、脅迫性が消えていることに気づいている。 ぼくは、いまの壊れた体なりに普通に生きようとしているだけである。 二度と強制薬害のない制度にしてほしいとしていますけれどね。 

 

 

いまのぼくには、集合容喙よりも、人間の自惚れ(と無礼)のほうが腹が立つ。 すべての問題は これから生じると思うから。 集合容喙は昔から普通の顔をした人間を通して働いていたと、個人的には確信している。あれも、これも、と思っている。昔から「普通の世界」で作用してきたのだ。それを、合理性の仮面をわれわれのほうから押しつけて見ぬふりをしてきたのだ。 この世はもともと合理的必然性と偶然性だけでできてはいない。神と創造主の闘争の場なのだ。     

 

創造主のために、われわれはすっかり不信心になっているけれども、創造主への期待ではない、神への祈りを、悩みと苦のある者は復活させよう。  

 

 

こういうことを記すことでぼくは自分を彫り、公表することによって、存在とする。この欄はそういう場として仕事の場(アトリエ)なのだ。