〔18日 付言: 

集合容喙取締法(改正条例)は、被害者がまだ有効に活用しようとしていないのである。

ぼくは、集合容喙は、形而下的人為と高次元的作為の合作であると言っている。つまり、高次元の作用を惹起する方法を知っている、地上の人間(集団)がいる、とぼくは推測している。ゆえに、高次元作用そのものは人間の手に負えなくとも、そういう作用の媒介(仲介)となっている人間を取締ることはできるかもしれない。それを、集合容喙取締法に基づく警察の活動に期待しているのである。〕

 

 

 

こういう節も読んでくれるのは感謝である。

奇しくもちょうど一年前の日付の節だ。



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そろそろ、作家が真剣に関心を持って、あるいは、被害者のなかから作家が出て、この現象を主題とした作品で、社会的に有名な賞を受賞するとかすべきではないか。世界的な問題であるから、相当知性のしっかりした人が書いて、ノーベル賞でも貰ってくれれば、社会的認知は決定的に実現される。この問題は、そういう主題となる価値がある。 

 

 

 

言葉がなければ被害者は孤立したままだろう。言葉によってしか伝えられないものがあるのだから、言葉による表現に努力しなければならない。

 

 

被害者はなぜもっと公に声を大にしないのかという見方もあるようだが、ぼくも被害当初は、直接国に大量のファクスを送ったり連絡を試みたりした。しかし不思議なほど相手にされなかったのだ。しかも被害者は、いつも抵抗にたいする報復に晒されている。長期化すると、無気力感との闘いともなり、同時に、自分は本来こういう訴訟的運動のために生きているのではない、という意識も持続しているのである。被害者は、運動そのものが生の目的になるほど単純な人間ではない。運動と、本来の生と、二つを為さねばならない。しかも、問題の構造は、実質的にいつも霧の中にあって、断定的な知識・認識の明瞭さで動くことはできない。煮えきらなくさせる構造が問題状況そのもののなかにある。 そういうなかで、ぼくは自分の事件の、否定できない経緯を公開している。この欄でだ。実証的に事件を解明する足掛かりになる手堅い事実である。それなのに誰も拡散しない。そのほうがぼくには不審なことだ。そして各々は結局推論にすぎない一般背景論に汲々としている。ぼくの具体的事実提供は問題にしないで、そういう一般的推論に付き合えというのか。ぼくも、だいたい距離を置いて個人的に行動しようという気になるではないか。しかも、自分の本来の生がいちばん大事である。被害者という一線だけで、あとは異質な人々と、付き合う気は正直起こらないのである。こういう件は、世界観の問題ではない。国を動かさなければだめである。それを、無意味だとか、国が事件の元凶だとか言っていてもはじまらない。そのあたりの切実さが、研究熱心な被害者たちにみられないことこそ問題である。無論、研究は大いにやるべきである、そういう力が残っているのならば。しかしそれは、一つ一つの具体的事実を詰めていく背景としてこそ意味をもつ。そして気をつけなければならないのは、仮にスポンサーが現われたとしても、スポンサーは常に自らの実利的政治的思惑があってこそ動くということだ。

 

 

 

対策として、言いたいことはまだある。事件としての集合容喙現象を神秘化して、善悪二面があるなどと見做さないことである。これは、事件であるかぎり、本質的に絶対悪なのである。このスタンスを、事件としてこの現象に対するかぎり、ぜったい崩さないことである。 

 というのは、この現象は、いろいろ味なことも仕掛けてくるからである。それを、自分において、どう「活かす」か、工夫を要するところなのである。いずれにせよ、ゆるがない自分の信念が中心にあってこそ「活かす」こともできる。そしてこの世の不正悪を一貫して追及することもできる。この二つは同じことなのである。

 

 

 

 

 
 
〔こういう記事をアメーバも拾ってくれるようになったのは感謝である:〕