テーマ:
 

 

愛は超越者から授けられるものである。愛そのものが超越なのだ。そのときぼくは愛するひとの本質を愛し信ずる。この超越者は神であろうか。超越者に導かれてぼくは探求する。 〔「超越者」はヤスパースにおけるTranszendenz(トランスツェンデンツ)。「超在」とも。〕 

 

 

 

 

思想そのものが行為である。それはぼくのこの欄の営為そのものによってその意味をあきらかにしている。思想は体系ではなく自己探求・存在探求の自覚そのものである。思惟とはその探求意識の精緻さそのものである。 

 

 

思想に王道なし。この欄はそのことを示したいと思っている。

 

〔この最後の一行は、「わかりやすい精神思想」を求める、現在の大方の人々への、警句のつもりである。これがいちばん、無用で軽薄な他者批判・判定という僭越行為を生むのである。スピリチュアリズム系のみならず、それを批判するつもりの学問系にもみられるだろう。こういう両極からぼくがいかに隔たっているかを、ぼくの書くことの「全体」に注意しながら理解してほしい。部分読みはだめである。〕 

 

〔ヤスパース哲学の出発点は「世界観」学であった(『世界観の心理学』)。思想としての世界観はよほど緻密にしないと危ない。その批判と反省からゆきついたのが彼の実存哲学であった。  ――集合容喙現象を起こす魔の力は、人間に自己否定と自己虚無の世界観を押しつけようと画策する。ぼくには、この自然世界そのものがナチズムの全体主義の手法で「被害者」をスケープゴート化して自己否定を暗示的に強要していると感じる。そういう自然世界の背後には悪魔がいると、ぼくは感じる。この力は、ぼくが屈しないものだから、実際に薬害を強制した。それは、この力が実在していることのしるしである。この自己否定の強要とぼくは緻密に冷静に闘っているつもりなのである。いまいちど *参考資料III(悪魔)感謝教は悪魔教である。'16. 06月27日 02:05 を参照。

 

― ぼくの課題は、「創造主と神」(副題:「わたしの」哲学)である。じぶんの哲学を打ちだすこと。創造主は、悪魔のように信用できない。それは神ではない。―