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1996年7月24日の自分の思索ノオトから。公開するのは初めてである。
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宗教の目標は、魂の完成にある。あらゆる「奇跡」にもまして、これが一番大事な、意味の根源である。神は、求める者には求めるものを、また、求めないさきから必要なものをくださるであろう。しかし、この、くださるものの故に、このものを意味そのものとして、神をあがめることを、御利益信仰という。これを「信念」や「確信」などと言うならそれはこれらの語の本来の意味からすれば一種の戯画である。それは信仰の経験主義、実用主義である。信念とは、本来あらゆる経験に先立つもの、経験に核心的な支え(拠り所)を置かないものである。そして、却って、或る特定の経験的事象の中に、自らの内発的信念に一致するものを認める限りにおいて、(即ち内なるものに一致するものを外なるものの中に認める限りにおいて)、その事象をはじめて「奇跡でありうるもの」即ち神の直接的な力によって出現させられたとみなしうるものとして承認するところのものである。(なぜなら奇跡を奇跡として承認するのは我々の判断であるのだから。この場合奇跡とは、外的事象の中でとりわけ強烈な神のはたらきの印象を我々に与えるもののことである。)
 我々の内的理性と、外的事象との一致によって、理性が単に観念や理想ではなく実在に一致するものであることを示すように思われる事象を我々は奇跡即ち神のわざと呼ぶ。即ち、神のわざを神のわざとして承認する権威すら、我々の内に在るということである。
 キリストのよみがえりは、死んだ人が生きかえったから奇跡なのではない。我々が、正義と愛の人、まことに正しい、普遍的な理性の人と認める人が、それにふさわしく報いられたことを強烈に我々に印象づける出来事であるが故に我々はそれを奇跡と呼ぶのである。
 御利益信仰者が、人間の気品も、誠意も、知性もかなぐり捨てたように駄目にしてしまうのに僕はつくづくいやになった。人間を感動させ尊重と敬愛の念を抱かせるのは、そういう者の語る「奇跡」などではない。(そういうことの故に人間としての価値が何か付け加わるという気は全くしない。)魂の完成のみが、感動させ尊重と敬愛を抱かせるのだ。この前提でのみ、奇跡は感動的なのだ。感動的奇跡の前提なのだ。

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よい時代になったものだ。こういう機械がなければ、この省察もぼく以外誰にもみられることなく消滅してしまっただろう。この省察がどれだけの価値のあるものかということは、ぼくがここで紹介した基準ではない。かつて書き留めた、健常体の頃の自分の痕跡への愛が、これにも日の目をみさせてやろうと思い、ここに句読点に至るまでそのままに写させたのである。その気持はぼくだけが知っている。誰にも見せないつもりのノオトに書いたのだから、これほど僕の真実な真摯さを証するものはない。こういうものこそが創造主を磔(はりつけ)にする権威をもつのである。
〔上に紹介した文をわたしは今日偶々、昔のノオトを繰っていて再読したのである。紹介して差し支えないものの一つだと思った。自分のものなので、読めば明瞭に思い出したが、いまのわたしもこの線に忠実に生きているのだなと確認した。文そのものは忘れていたのであり、この文に基づいていまのわたしが思想をこの欄で展開してきたのでは勿論ない。それだけに、自分の一貫性を確認する。〕