『 ・・・ 僕の短かった繁栄の変化に富んだ時期は、その当時に僕が感じたようには、親密にも、永続的にも、なんら楽しい思い出を残さなかったのである。そして、それとは反対に、僕は自分の生活のあらゆる悲惨の中にあって、やさしい、しみじみした、こころよい感情に満たされている自分をつねに感じたのだった。そしてこの感情は、僕の痛む心の傷に有効な鎮静剤をそそいで、心の苦痛を悦楽に変えたかに思われたし、また、この感情の愛すべき思い出は、僕がそのとき受けていた厄災の思い出から分離して、ただひとりで僕のところにもどってくるのである。僕の感情は、いうなら、僕の運命によって僕の心の周囲に圧縮せられ、もう外部に向って発散しなくなった。彼ら人間の尊重する対象物・・・のほうに、僕の感情が発散しなくなったとき、僕はますます生きていることの甘美を堪能したような気がする。ますます、実際に生きたような気がする。』 

 

 

第八章最初。 これが人間の真実であろう。 

 

 

『 すべてが僕の周囲で秩序の中におかれていた時分、僕を取巻くすべてのものに、そして、僕がその中で生きねばならなかった世界に、僕が満足していた時分、僕はその世界を自分の愛情で満たしたのだった。僕の膨脹性のある魂は、他の物象の上にまで拡がっていった。そして、種々さまざまの嗜好のため、たえず僕の心をとらえる愛すべき執着のため、つねに自分から遠くに引きずられていった僕は、いくぶんか、自分自身を忘れていた気味だった。僕は自分に無関係なものに全身をうちこんだのだった。・・・ この嵐のような生活は、僕の内部に平和を残さず、外部に静安を与えなかった。表面は幸福であっても、反省の試練に耐えうるような感情、そして、その中にあって僕が真に惜しみうるような感情はもっていなかった。僕は、他人にも、自分自身にも、決して完全には満足していなかった。世の喧噪は僕を眩惑させ、孤独は僕を退屈させ、たえず居所をかえる必要を感じ、そのくせ、どこへ行っても落着けなかった。僕はいたるところで歓待され、引っぱりだこにされ、ちやほやされ、どこへ行っても大切にされた。僕には一人の敵もなく、一人の悪意をもつ者もなく、一人の妬む者もなかった。人々は僕に親切を施してくれることのみ念じていたので、僕のほうでも多くの人たちに親切を施してやるのが愉快だった。・・・ そして、僕はどんな状態の人を見ても、その人の運命が自分のよりいいとは思えなかった。それでは、僕が幸福であるために何が欠けていたのだろうか? 僕はそれを知らない。ただ、僕が幸福でなかったことは知っている。では今日、生きている人間の中で最も不幸であるために、僕に何が欠けているだろうか? 僕を不幸にするため、彼ら人間はありったけの力を使いきってしまったほどである。ところがだ! このような哀れな状態の中にいても、なおかつ僕は、彼らのうちで最も不幸な者と、存在と運命を取換えようとは思わない。そして、一切の繁栄の中にいるあの人たちの誰であるよりは、この悲惨な境遇にいるこの自分であるほうがまだしもいいと思う。・・・』  

 

 

あまりに生(の逆説)を活写した名文であるので筆写した。 

 

 

 

ルソーはもうすこしだけど しばらくお休みです。