『・・・ 彼ら人間が僕の兄弟であるからには、僕は自分で地上の至福を企てたのだった。この企ては、常にあらゆるものと相対的であるため、公衆の至福をぬきにして、僕は幸福ではありえなかったのである。そして、個人の幸福などという考えは、僕の兄弟が僕の不幸の中にのみ彼らの幸福を求めているのを知ったとき以外は、僕の心に浮んだことさえなかったのである。ところが、彼らを憎まないとすれば、どうしても彼らから逃げねばならなかった。・・・ 

・・・ 

 僕はうっかり自分の不幸を思うのがこわくて、いきおい物を思わないようになる。身につもる苦悩のため終いには暴れかねないので、楽しいが物憂いイマジネーションの残余は抑制することにする。・・・ このような強制を受けているにもかかわらず、僕は自分をことごとく自分の中に集中することができないのである。なぜなら、あふれ出ようとする僕の魂は、その感情と存在を、僕がいやでも他のものの上に拡げようとするのだから。・・・ 

・・・ 

 人間を避け、孤独を求め、もはや想像せず、それにもまして考えごとをしなくなった僕、そのくせ、憂鬱な、沈滞した無感覚とはおよそ縁の遠い快活な気質を受けた僕は、ようやく、自分の周囲のあらゆるものに専念するようになったのである。そして、きわめて自然な本能によって、最も楽しい物象を選んだのである。・・・ 』  

 

 

 第七章からだが、アラン好みの省察が引き出せそうな箇所である。 

 

 

 

 

人間を幸福にするのに無力な宗教は、人を不幸にすることに集中させて(しかも慈悲をもって助ける振りまで同時にして)、気をまぎらわせようとする。 それが集合容喙ではないかとぼくは思うようになっている。 その心理構造は、いったん気づけば呆れるほどよくわかる。自尊心を転じた優越感への欲(人間的欲の原理ともいいうる)を、人工的に充たそうとするのである。