この題でひとつ論文を書くことになった。 

 

些末なことは要らない。 些末とは世間事のことである。 ぼくでなくとも言えることは、他の人々に任す。  

 

 

集スト被害を契機とした論文や哲学がそろそろ出てもいい頃である。出ないのが不思議だ。 ぼくの論がその嚆矢となるならそれもよい。 

 

薬害でかなり制限を受け、かつ敏感になっているなかで、どれだけできるか。 意識はいつも白紙の状態で、何にでも染まるようになっている。そのなかでぼくの一貫性を維持深化させることはかなりの力仕事でずっとあってきた。 

 

 

ぼくはこの世そのものが集ストの世界だと思っている。一般はそれに気づかないだけだ。 社会そのものがそうなのだ。 その背後にいるのが、「外化された神」としての創造主であり、悪魔の別名である。 

 

最もわるいのは、人間であり、悪魔はそれに便乗してふざけているだけだと、ぼくには思われる。 それでも悪魔はいるのだ。 われわれは自分たちの生きている世界の実相についてほとんどなにも知っていない。 集スト(集合的容喙)はすでにジャン・ジャック・ルソー、あの古典的教育論「エミール」の著者が、まったく同一の経験をして記している。このことはぜひ言わなければならない。

 

 

「神」 と 「創造主」 で、ぼくはそれに対応する人間の「本来的生き方」と「反本来的生き方」を、各々意味させようとしている。 

 

 

あらゆる組織のなかに、悪魔の分身は入り込んでいる。学童・子供も、自然・動物も、たぶん無意識に悪魔に操られて言動している。この世は霊界汚染されている。けっしてわたしの経験している現象は、機械技術装置のみによって起こされている種類のものではない。なんらかの呪詛の力が、ダークエネルギーが、はたらいている。 

 

 どこで呪詛しているのか。 これはルソーも経験し、その組織を推測していることなのである。彼はキリスト教圏であるから、キリスト教の団体を具体的に推測している。あらゆる宗教団体は、公にはしないが、呪詛の術の伝統を有しているだろう。これはどうも ある実在的な力をもっているらしい。 悪魔と通じる要らざる術である。 

 

 

ぼくの周りの住居者たちも、様子のおかしいことはぼくはとっくに経験済みである。ある時点で住み替わっていた。ただけがらわしいからずっと言わないでいた。無視しつづけていたから、どこかにいなくなった。ぞっとする。 ぼくのNHKとの一件を知っていて、それも古くなりすぎたネタを、戸外に叫んでいたことがあり、いまごろ、ばかじゃないかと、心底あきれたことがある。あの連中自身、集スト行為をする前に術をかけられたような、独特の光る目つきをしていることを、よく読者に伝えておく。 

 

 ぼくがこの欄で言ったことはすべて、一つも訂正するものはない。繰り返すことはしないので、集合容喙現象のテーマを読んでほしい。

 

 

 どんどん書き足してゆくぼくの書き方は、ぼくの状態上、仕方のないことである。読者の寛恕を請う。まだ書けるだけ立派である。 

 

 

引っかかりがとれたのだから、じぶんを充分休ませることが第一。そうすれば論はおのずからできる。   

 

 

 

 

*ぼくはこう思う。高次元知性体が宇宙を創造したときも、なんらかの「工作」行為をしただろう。学校の「工作」の授業のあの「工作」である。この工作をするかぎりでは高次元知性体も、「外界」に気をとられている。そのような状態にあるものとして高次元知性体をわれわれが思惟するかぎりでは、高次元知性体は、「創造主」なのである。 しかし高次元知性体も、われわれと同様、意識が内面を向くかぎりでは、内面的存在であり、そのような高次元知性体は、「神」の資格がある、と言えるのではないだろうか。 

 

 

 

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集合容喙被害者の方々の報告は、黙って読ませていただくことにします。苦労を無駄にはしません。ぼくの苦労も入っていますから。ぼくの「見解」とともに、しっかり国に伝えています。国に受け入れられているという感触を、ぼくはいだいています。なぜなら、人間が見るのは、やはり人間ですから。   

 

 

(或る言葉を最後に書こうとしたら、そのたびに、外で、三度、あほうがくしゃみをしたので、その言葉をやめました。無意識的工作員といったところでしょうが、あの連中も、結構やくに立っているのかもしれない。よけいな言葉を書かなくてすんだと思うことにしましょう。)