群れない、人の言いなりにならない、精神的自立志向のある人間が、集合容喙のターゲットになりやすい、と ぼくは感じる。集合(全体)から外れようとする傾向のある人間である。 

 

集合的(集団的)である社会の宗教的(霊的)原理そのものに、魔力はあるという気は、ぼくは当初からしている。「いままでのおまえの生き方・志向は、間違っていた」、というアピールを、ぼくは、現象のピークの頃、しきりに仕掛けられたと思っている。 

 

これは、ベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』における、道徳と宗教の源泉の一つである集団社会の原理が、霊的に稼働しているものである、という直観がぼくにはある。いま、この本に手掛かりを探っている。ぼくに言わせれば、これが「創造主」の原理なのだ。 道徳と宗教の源泉のもう一つは、個の魂と自由をなによりも尊厳視する、ぼくのいう「神」の原理だ。 これは確かめられなければならない。