人間(日本の)は、人間関係を成立させる条件に関して無知である。 

 

人間が、自分の見方が他者にそのまま通用すると信じていれば、その者は間違いなく狂信者である。狂信者は、良識ある信念者の顔をしている。なまじ人間思想を中途半端にやった者はすべてこの意味での狂信者になっている。最初から思想になど触れないほうがよかった。いやむしろ、なにもしないでいても思想の雑音が聞こえてくるこの世で、まったく思想に染まらぬ者は、それだけでたいした本物ではないかと思う。 

 

自分の見方で他者を断定したら無事ですむはずがない。 

 

自分としての信念はそのままでも、他者に面しては 自分の見方を思惟のなかで相対化もできるか、そこで器量が決まってくる。それができる者がどれほどいるか。自然とそれができるひとはいるのですよ。それこそ教養感覚だ。いわゆる知識人(日本の)に教養感覚のないこと、探すほうが難しいことは、覚えておいてもらおう。学問などやっている者のほうがよほど阿呆なのが日本の現実である。阿呆なのはよいが、狂信と化した自分の信念と見方で他者を傷つける。 まともなのはぼくぐらいではないかと思う。 ほかに知らないからである、日本では。 フランスの学者は全然違うことはくりかえし言っている。端的に言って、「人間」の有無の差だ。 

 

こういう良い真実の話は、ほかでは聞けない。