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合理主義哲学の祖と云われるデカルトは、思想の「普遍」主義者として、もっと教条的な書き方もできたろうと、一般は思うのか。ところが、この真の合理論者は、自己の「歴史」を語ることをもって、自分の思想がどのように自分の精神のなかで生成していったかを、まず世に示す必要があるとかんがえた。「普遍」と「歴史」、この、「人間思想」においての関連をぼくはよく承知しているが、人文的次元においてのみならず、歴史性を媒介せずに本質が普遍性を持つ数学的真理をめざしたデカルトにして、自己の「個人史」を語ることから、世に自分の哲学を呈示した(「方法序説」)。このデカルトの根本態度は よく現代においてこそ手本とされるべきである。きみたちは、なぜ、「自分を語る」ことによって「自分の思想を語る」という正道をとらずに、いきなり〈一般的真理〉を語ろうとするのか。言葉には、自己の経験が密着している。だから言葉の意味を正しく伝えようとしたら自分の歴史を語るしかない。それをしないのは、神や天使を気取っているのにほかならない。もし、神・天使のお告げだと云うなら、それを受容し実践した自分の歴史を語るべきである。そのように、つねに「歴史性」を通して「思想」を語るという態度を根本としなければならない。数学的真理を思想において求めたデカルトにしてその感覚が「良識」としてあったことを、つねに思い起こさなければならない。不特定多数のひとに一般的なアドヴァイスや助言をしたいのであれば、デカルトが世間にしたように、まず、自分自身を具体的に語りなさい。それがもっとも世間に思想を正しく本来的に伝える方途であることをDescartesは良識として理解していた。この、他者にたいする態度において、デカルトの前で恥じない現代スピリチュアリストはいないはずだが、恥、つまり「羞恥」の感覚すら現今の者が忘れているのなら、いかなる「実存的真理」(ほんとうの人間の真理)も伝達されないことを、銘記すべきである。
こういう、思想を定義する歴史を語らないものが、「標語思想」なのである。
〈魂の真理〉を語りたい者が、自分を率直に語らないのはおかしいではないか? こういうことは常識であるべきである。

森有正も、思想言葉を定義する個の「経験」の重大性にフランスで気づき、パスカルよりむしろデカルトやアランに傾斜していった。「経験」重視は「体験主義」ではありえない。これ(体験主義)はむしろ「標語主義」の裏面であり、内省的批判的思考がまったく働いていない邦人の精神特徴の両面〔が「標語主義」と「体験主義」〕である。森の気づいた「経験」は、フランス思想の真骨頂である「合理と経験との統合」に応ずるものである。

この、思想の標語化傾向は、日本人の自我の未熟さに関係していることはあきらかである。
いまでも、いまますます、フランスなどに滞在して、自分の〈未熟さに絶望〉する邦人がいるのは、当たり前のことであり、むしろそれを感じる者は正常である。自己意識の成熟の次元がまるで違う。これがわかって「秩序感覚」に気づくのである。
 
 
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高田博厚 ・ 森有正 1975年 (福田真一氏提供)1992年図録より