この節も多く読まれている(昨日もまったく自発的に9接続)。ぼくにとっても決め手となる大事な節である。


 


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共時性現象(個の内的思いに外的事象が意味的に符合するように同時に起こる現象)の教えることは、ぼくがどういう瞬間に何を為すかは予め決定されているか、すべては一なる実体の唯一の行為の表現である、ということである。そうぼくには思われる。ぼくに行為の自由があるとすれば、それは一なる実体がぼくにおいて自由に行為しているということなのである。すべてを個の自由とその首尾・不首尾に帰するには、微妙で奥深いものがありすぎると感じる。個にありそうなのは、思惟の自由、それも、起こったこと、為してしまったことの結果を、どう内面的に消化して自分の一貫性を自分にとって生み出すか、そういう思惟の自由のみであると思われる。あらためて明瞭に言うと、これが実存的(ヤスパース的)な我有化(独語でAneignung・アンアイグヌンク)の自由なのだ。 

 

 これが、個の内的主体性、その歴史性の内実を、個にとって生む、創造的自由なのだ。

 

 このような思惟が、ぼくにとって最も根源的な「観想的自由」を可能にするように思われる。

 

 

 この観想の内実を調整するもの、我有化をして我有化たらしめるものが、ぼくのなかに原理のようにある。これが、ぼくをしてぼくたらしめるもの、内部の韻律・秩序 とよべるものだろう。

 

 この自由は、高邁の心のように、根源的に因果応報の連鎖から解放された自由である、と思う。

 

 

この、内部の秩序そのものも、必然的に仕組まれたものなのか、どうか、それはもう問わなくてよい、問う必要はないのではないか、とぼくは思う。なぜなら、自分の内部の秩序と感じ信じるものにおいては、「自己の自己への同意」があり、これこそは自由の本質である、と思われるからである。

 

 この親密性(自己同一性・identité de soi)こそは、「逢着」(ここでは「逢って落着く」という意味を独自に籠める)された「存在」であり、アンティミスムの窮極である。