読者が自発的に読んでくれました。

「自分に向って」の主題に編入していた節ですが、この再呈示で、内容上、「集合容喙現象」の主題に入れることにします。

都市を車で通過したことを書いていますが、車の外には誰もいなかったのに、車は道路をびっしり走っていたのです。異常な光景でした。

 


 

あの現実経験をどう表現したらいいのかまだ適切な仕方がわからない。ふつう、日常で、自分の自由意志の行為と外界の事象の生起とは互いに独立しており、その間に或る意味了解的な一致があってもわれわれはそれを偶々の 偶然の一致と見做して済ませている。しかしそこに隈なき一致が不断に経験されたとしたら、此の世が自分にとっての書き割り舞台に豹変したと思うだろう。しかも「観客」である自分の意思言動にぴたりと寸暇を置かず合わせて(瞬時的共時性をもって)舞台の事象が生起するとしたら、自分の内的想念世界と外界との相互独立性を解消するような不可思議な或る意志が、悪魔の意志がはたらいていると断定せざるをえないだろう。神ではなく悪魔なのである。なぜならそこには何ら精神的な意味も充実もなく逆にひたすらそういうものを茶化し破壊する方向に、つまり大がかりなわるふざけとして、事象の生起が経験されるからである。いま思いだしていることを特殊な一事例として記しておくが、ぼくがたまたま都市の中心に出向くと、いかに地方都市とはいえ、まったくの平日に、広い公園にも博物館前の広い敷地にも大学のキャンパスにも小学校のグラウンドにも校舎にも誰一人、車で通過している間に見えなかったとしたら、どう思うだろうか。しかもこれは無数に経験した奇妙現象のほんの一例で、ぞっとするような現象のなかで、その不気味な現象の連続を構成する一環として、見せられたのである。こういうことをぼくは現実に経験しているのである。ぼくが狂っておらず正気だから、現象の不自然さ奇妙さを感知するのである。ぼくのこういう報告話をあなたがたは真にうけますか。ぼくだっていまだにそれを受け入れがたく、しかし現実に起こったから認めざるをえず、その「からくり」を見抜けていないのです。この現象はまだ尾を引いています。
こういうことをどうしてぼくが経験しなければならなかったのでしょうか。この「異変」は、例の東京マンションの一室を引っ越した後、既に東京で、そして飛行機で帰る途中と、郷里に戻ってから、というふうに、ぼくにずっとつきまとってきたのです。はじめに「人為」があったことは客観的に疑えないのです。しかしその後どうして「異変」がこれだけ大規模に膨れ上がったのか、拡張したのか、これも人為の為し得る技なのか、宇宙そのものがぼくにそのとんでもない本性をみせたのか、或いはこの「人為」と「宇宙異変」との間で統括する悪魔の力があるのか(いまのぼくはこの最後の想定を肯定しています)、こんな不思議なことはどんな小説家の想像も超えると思っているのです。こういうなかにあって人間のできることは、この異変の最初の端緒となった具体的人為の真相をまず合理的に事件として解明してゆくことであり、その真相の奥にある不可思議なものにまで押し迫ることです。そうして、此の世を裏で統括する暗黒の力に出会うかもしれません。社会の実力権者達はこれを知っているか、これを操る技術にまで到達しているのかもしれません。ぼくはそこを聞きたいのです、探りたい、探ってほしいのです。