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ロダンは、ゲーテが「ファウスト」をそうしたように、《一生「地獄の門」を担ぎ歩》いた。ロダンの「複雑な性格」をここでわれわれはかなり察知することになる。自然そのものの美に忠実な彼の彫刻本質の会得力と、同時に、彼の熱情の過剰な動性。《熱情なしには彫刻は作れないだろう。しかしその熱情が文学的に表現されると、彫刻は一元性を失う。》ルオーもまたその宗教的象徴絵画において、感情的文学的表現欲と、真のメタフィジックな絵画本質の会得との間で、葛藤し自己濾過していったことを、つまり絵画における「一元化」過程を、高田博厚はそのルオー論で綿密に描いている。わたしがロダンの作で最も感動したものは、上でもやはり言われている「バルザック」像である。ロダン自身の言として高田が記している言葉、「芸術行為は、高いなにものかに向かっての自我の解体である。放棄でも委託でもない。」は、ロダン自身の言葉で、「自我の一元化」を語っていると理解すべきである。すなわち「自我の解体」は、自我の過剰な動性による表現分化が鎮まることであり、それが「放棄でも委託でもない」ことが、この場合、「自我の一元化」を意味するのである。蓋し、ロマンティスム感情における「無限への自己放棄、委託」は、まだ甘いものであり、一元化した自己が「神」に当面するぎりぎりの「神との対決」の窮極場において言われ得る「自己委託」は、もっと境位の異なるものである。高田博厚の自己会得した「信仰」に、この意味での「自己委託」が存することをわれわれは知っている。