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ロダン、ゴッホ、ルオー、名だたる芸術の巨匠たちの信仰への関わりを、概念としてのキリスト教で云々するのではなく、人間の自己が当面する「神」としか呼べぬもの、という実存の根本態度、形而上的根本関係の凝視から、反省すべきであろう。彼らにとっての「美」の意味がそこに見窮められるまで。
「美」に赴く態度と 「神」に赴く態度は 同一なのである。ということは、「美」には、「自己」の在りようの全重量が懸けられるということである。「芸術は、魂の熱烈な告白」(ルオー)なのである。
そして、この道は、ロダンの彫刻二大法則にも示されているように、感覚行為と創造行為という「実証行為」によって、手堅く踏み歩まれてゆく。「神の存在」もまた、概念抽象ではなく、感覚象徴による顕現を、このいみでの実証を、求めてくるのである。そこにこそフランス精神とその伝統がある。
実証と神秘
神秘そのものが実証を求める
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Rodin: Buste du Père Pierre-Julien Eymard (1863)
(ロダン: P. J. エイマァル神父の胸像)
ぼくは先生の著「偉大な芸術家たち」でも、自分にぴんとくる文章しか選んで載せていない。ぼく自身に触れてくる、ぼくにとっての文章のみである。 そのなかで、ロダンの《下積み忍従時代》を支えた態度について、先生はロダン自身のこの言葉を記している:
《「私は自分の彫刻のために苦しんだ。私が強情っぱりでなかったら、今日まで作ってきたものも作らずじまいだったろう。仕事の幸福だけが私をささえていた。仕事さえしていれば悲観せず、いつもうれしかった。」》
これは、彫刻家 高田先生自身の態度と現実そのものでもあるだろう。先生は、「偉大な芸術家」を語りながら 自分自身を語っていることがきわめて多いのである。真の理解はそうでなければならず、そうでしかありえない。「私は生涯自分自身をしか思惟しなかった」というヴァレリーの言葉を想起する。
読めば読むほど ぼく自身のことでもある。