とるにたらない小さき者が、偉大な人物の片言隻句の一部をとりあげて攻め立て、その一点に集中することによって、〈我この人物にまされり〉と自他に言い聞かせる卑小さ、絶望的な自惚れの妄信のみじめさは、洋の東西も時の古今も関係なきことを、経験は教える。
Les Rêveries du promeneur solitaire :
「彼らは自分らが勝手にでっちあげたジャン・ジャック、思う存分に憎むことができるように都合よく作りあげたジャン・ジャックしか、僕のかわりに見ないであろう。だから、僕は彼らの僕に対する見方など気に病むのはまちがっている。
「以上のことごとくの反省から得た結果は、そこにあってはすべてが窮屈であり、負担であり、義務である文明社会に、実のところ、僕はぜんぜん適していなかったということである。そして、僕の生れながらの自律性が、彼ら人間とともに生きるに必要な服従をいつも僕に不可能ならしめたということである。僕は自分が自由に行動するかぎりにおいて、善人であり、善いことしかできない人間である。それだのに、僕は束縛を感ずるやいなや、それが必然性の束縛であれ、人間の束縛であれ、僕は反抗的になる。というよりは、ひねくれてしまう。いったんそうなれば、もう僕は零の存在でしかない。僕は自分の意志の反対をしなければならないときは、どんなことになろうと、それをなさないのである。僕は自分の意志をさえなさないのである。僕は行動することを差控える。僕のあらゆる罪は、不行為からきていて、行為によることはめったにない。人間の自由は、自分の欲することをなすことにあるなどと、僕は一度も思ったことはない。ただ、自分の欲しないことをなさないことにあると思っている。これこそ、僕がつねに要求し、しばしば我が物とした自由であるが、この自由のために、僕は同時代人から最もはなはだしく誹謗を受けもしたのである。活動的で、攪乱的で、野心的な彼らとしては、他人のうちに自由を憎み、自分自身に対しても自由を欲することなく――尤も、時々、他者の意志を抑えるという条件において、己れの意志を実行しはする――、一生涯、窮屈を忍んで自分の嫌なことを為し、命令するためには、どんな卑屈なことをも辞さなかったのである。彼らの過誤は、僕を無益な一員として社会から遠ざけたことではなく、有害な一員として社会から放逐したことだった。自白するが、僕は善いことはわずかしかしなかったかもしれない。しかし、悪いことなどというものは、生涯、僕の意志の中に入ってもこなかったのである。そして、僕より実際に悪いことをしない人間が世界にひとりでも存在しようとは思えない。
「僕のような境涯にあれば、自分の気の向くままに、好きなことをするよりほかに生きてゆく道はない。いまさら僕は自分の運命などどうしようもない。僕は罪のない嗜好しかもっていないのだ。彼ら人間の批判など、今後の僕には取るに足りないものなので、叡知でさえもが、僕に可能な範囲で、何なり自分の楽しいことをするのを望んでいる。対世間でも、自分ひとりでも、ただ気の向くままに行なえばいい、自分に残されているわずかの力に従いさえすればよいとしている。」
自分の意志あるいは自由を殺して生きている者は、それだけで、他者の意志あるいは自由を殺そうとする否定的破壊的意志を持ち、実際に、それを実行するほど、つまり、他者そのものを実際に殺すほど、悪意と邪意を積極的に発動するものらしい。これこそ、正義面をした此の世と霊界の集合念であり、悪魔の本性であり、「ひとはひとにとって狼である」ことの真実意味するところのものだろう。自分を内面的に殺す者は、他者を内面的に殺す、すなわち実際に殺す者であり、これが通常「道徳」という名で呼ばれているところのものである。社会という全体維持のための観念形態(イデオロギー)としての道徳に、ほかにどういう正体があるというのか。これこそは、「全体のための神」である「創造主」を立てるところのものでもあるのである。
ルソーは上で、「いまのような境涯では、自分の気の向く好きなことをすればよい」としているのは、もっともなことである。しかし彼は、薬によって身体を壊されていないだけ、ぼくより無限にめぐまれている。当時は余計な薬も開発されていなかった。この一事が無限に残念である。彼はまだ「仕事」ができる。ぼくは「まだ仕事ができる」ふりを自分にしてみせなければならない。集団容喙も、身体毀損も受けていない者等は、「社会にたいする自分の義務」をかんがえ果せ。
「仕事」は、死ぬまでの暇つぶしや、死を無視しかんがえないようにするための逃避ではない。そういう態度で歴史上の真の偉人たちは仕事をしてなどいない。「仕事」とはどういうものか、この欄でずっと言ってきたから、ぼくの書くべき言葉を各自は自分の内で自分で書くべきである。
社会というものが いまこのようにして成り立っているということそのものが、狂気であり、社会そのものが集団的(集合的)狂者であり、その正義は悪の偽善なのである。社会そのものを葛藤も罪責感もなく肯定するかぎり、そうである。或るスキゾフレニーの真因は、社会病理的背景なしにはけっして説明しえない。〈社会を維持する知恵〉そのものが悪の知恵なのである。個の弱い日本人は、社会原理に対峙する自己内原理すなわち「神」と「人間」の理念も保ちえない。だから西欧文化との差を埋めえない。現象ばかりあげつらい日本の相対的〈平和さ〉を言っても無益である。社会そのものが ひとにたいし狂気である(それを益々感じる)から、狂った事件が起る。
狂気と、魂の尊厳を理解せず無視することは、厳密にまったくおなじことである。コマーシャリズムは狂気、現代の狂気である。