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 文字くりっくで御覧ください。76節あります。この種の「事件」に関し、ぼくの記述は その正確さ的確さ、ゆるがぬ事実性において、貴重で価値があります。

 

 

 

 

 

きょう付加(通常主題欄より):

 

万物照応
昨日、この欄を書いていて、文中の括弧の種類を別にしたほうがよいことに気づき、その箇所の括弧を前後一揃い変更したが、そのとき、ぼくが括弧の前の部分を、それから後の部分を、別のものに書き換える瞬間毎に、ちょうどその瞬間だけ、外で小鳥が「そうだ」と言うように――その都度、つまり計二回――囀(さえず)ったので、こんなかわいい愛嬌のある容喙現象もあるのだと、もうおかしくて、これは客観的事実であって、ぼくの主観の異常ではない。(じつはいまこれを記録として書き始めたときも、きのうと同じ鳴き声が、察したかのように鳴き始めた。)ここまでぼくの個人的内的な密かな行為や心の動きにも共振するように同時的に外部で現象が起こる。これをぼくは日々経験している。以前いちばん露骨におかしかったのは、ぼくが他に哲学者マルセルの論理を喋っていて、ぼくが自分でもこれはちょっと筋が屈折したと心密かに気づきながら、かなり高度な内容だったのだが、或る命題を口にした途端、外で野良猫(多分)が、その瞬間だけ全く突然ほんとうに狂ったように「ギャアア~ッ!!!!」と鳴き叫んだ――猫だって判る、筋が通らないぞ、と云わんばかりに(これを書いた今また小鳥が鳴いた)――ことで、ほんとうにこの世がおかしくなった、全能の霊が支配している、と驚かないわけにはいかなかった。以上記録
 〔この共時性現象は、一般読者が多分イメージするかもしれないような――ぼくは充分想像がつく――、ただの長閑な偶然の一致として感じられるものではなく、明証的に「魔」を感覚させるショッキングなものである。ぼくはほかにも信じられないような現象を殆ど無数に経験しており、しかもそれは、回数よりも、その都度一回の現象の質こそ異常であると感覚させるものである。〕

 

 

5.19より

意識は空間を超えて働くことは、日本へ来て弓道を実践したオイゲン・ヘリゲル(Eugen Herrigel、1884.3.20 - 1955.4.18)の体験によるのみならず、われわれの日常的実践における体験によっても、実証されていることを、ぼくは高校生のときから、子供のときから気づいている。はっきり知ったのは、理屈(距離への意識配慮)なしに、バスケットボールをノーバウンドでリングへ入れる意識状態を実践経験したときだ。意識的計算的分析的配慮なしに、物理的目的が達せられている。これをわれわれは生活で実践して生きている。幼少の頃、遊園地でゴーカートを運転していて、けっして意識的に計算して身体運動しないのに、自分の手が車を自分の意志する方向へ操るのは、魔法のような不思議さだと気づき、驚愕して、運転ができなくなった。ぼくは生まれつき(そう言っていいだろう)、そういう、「意識を意識する」内的に敏感な素質だった。
〔飛行機(零式戦闘機)乗りは、機体の翼の先端の空気抵抗まで、自分の身体感覚として感じるほど、機体と一体となって飛んでいた。意識がそれ以上に自分を延長しないはずがない。それを実証するのが例えば弓術経験である。的を射ること、自分を射る如く、的と一体となるゆえに、暗闇で先に射た矢を次の矢が縦に割って命中する様な現象(哲学者ヘリゲルが証言)も事実生ずる。〕


5.14より
スピノザの唯一神観からすれば、予言予知の根拠も説明がつく。神あるいは神における個体の意志が事象を起こそうとするとき、神はそれを意識しており、神において在るすべての個体は、なんらかの仕方でこの意識を分有するであろう。これが個体における第六感とよばれるものである。
共時性現象も予言予感も同一根拠なのである。複数場に同一物が存在するという量子力学説も、スピノザ的唯一神観と和合する。〕

 

 

 

備考 5.19より

欄外記

量子力学では、認識主観が意識を向ける場所に、主観の意識する本質のものが、謂わば可能性という海のなかから選び出されたものとして、現実存在するのだと云う。カントの超越論的認識論の復活のようなこの理解を「人間」に適用すると、「自己は、自他の意欲するところのものとなる」と言えるかもしれない。これもまた、個的事象を一事例化するものだろうか。「意識」が「選択」に関与するだけ、もっと実存的な観方もできるような気がする。