c) 良心に基づく決断性

私は、私の現存在と衝動行為の直接性に留まることはできない。良心は、私を識別行為 に導くと、つぎは、私自身を決断する よう要求する。すなわち、私がともかくそうであるように現存在するのではなく、それとして私が在ることを欲するところのものを把持するよう、要求するのである。多数の可能性から、私は決意 において、私自身として現れるのである。
 決意は、識別する思惟の明るさにおいて良心に答えること である。決意は、意識一般が実践的に途方に暮れている特殊問題を正当に解決することとして為されるのではなく、絶対的意識である実存的決断として為されるのである。単に有限的な決意は、最上の知識に従って全方位的に熟考することに基づいて、正当であるように思えることを決断することであり、その結果によって、それが正当であったかどうかが示される。このような決意は制約されたものであり、自己存在が自らの良心に答えることではけっしてない。これに対し、実存的決意 は、本来的に良心に答えることであり、あらゆる対価を払って無制約的に選択し、自己を摑み取るのである。成功も挫折も世界の内ではありうる、その一連の帰結の結末としての成果は、〔実存的決意の「正しさ」の〕いかなる立証でも反証でもない。とはいえ、実存的決意もまた、感情や衝動のように直接的(無媒介的)なものではなく、無限な反省を通して真実性を得るに至ったものとして、はじめて実存的決意なのである。しかもこの実存的決意は、窮極的には理由無き直接性であって、この直接性が、自らの実現のために、あらゆる知識と経験と思惟を、いかなる限界も設けず利用するのである。
 決意は、可能的なものにつづく現実としての成熟 である。しかしこの成熟は完成ではなく、運動の始まりであり、運動として時間のうちで現象するものである。〔この運動として現象する決意を〕証する成果は、幸運な境遇の結果であるものではもはやなく、「忠実」(die Treue: トロイエ)であって、この忠実は、決意への結びつき、すなわち忠実の由来する決断への結びつきとして、あらゆる状況のなかで自らを証する。この運動は熱情的なものであり、「さらに見出そう」とするものであり、決意の「永遠な青春」(ewige Jugend des Entschlusses)というべきものであって、可能であるものを現実にもしようと欲する情熱なのである。

ぼくに刻まれていた言葉をここに見出した。ぼくはこの通り生きてきた。それが自分の本質だからである。

 私と私の決意とは、別のものではない。決意を欠いた存在者としては私は私の絶対的意識のなかで引き裂かれているであろう。しかし私が決意しているならば、全的(ganz) であるのみである。決意の瞬間は、決断として、芽であって、この芽は全的な生として自らを展開し、全的な自己存在となる。こうして自己存在は自らの様々な形態の系列のなかで己れを確証しつつ反復してゆくのである。 
 決意においては、根こぎにされ得ないということが、決意の現象がどんなに変化しても硬質なものとして在るのである。だがこの決意しているということの力 は、人が例えば「決然とした男達」について語る場合のような生命力や無思慮な勇気として既に在るのではない。そういうものとして在るのではなく、決断に基づいてこそ、どんなに〔他者の意見を〕傾聴し〔自己を〕抑制する柔軟さがあっても持続する決然性が在るのであり、この決然性は最も内面的な自己存在のものであって、この自己存在は、あらゆることを敢えて為し得るものなのである。

〔力が籠もるね。〕 

II. 269-270