〔「絶対的意識」だけはどうしても邦訳しておかなければならない。普遍的な意味がある。ときどき、適意な訳が大変困難な難所にぶつかる。我慢比べである。その間は動けない。自分が納得するまで待つ。〕


3. 夢想

絶対的意識としての夢想(Phantasie)は愛である。この愛は、事物の観照、形像や思想において、存在確信の開明となる。
 〔夢想によって、〕 経験的な個としての私を事物に束縛したり逆に事物から離反させたりする利害関心から解きほどかれて、私は「存在の現実」のなかで「現存在の現実」を生きる(ich lebe daseinswirklich in der Seinswirklichkeit)。現存在は透いて見える かのよう(wie durchscheinend)になる。夢想を通して私は存在を、あらゆる対象的なものを暗号(Chiffre)と見做すことによって把持する。この場合、存在は、対象的なものとはなりえないながらも、直接に現前しているのである。

〔第三巻において主題的に論じられる「超越者(存在)の暗号」が、第二巻でこのようにやや唐突な趣で出てくる。これが或る意味でヤスパース的な論述の特徴であり、一の部分の理解にも全体の理解が前提され、反照的に確認されることを暗に要請しているかのようである。「暗号」思想は、ひとつの「象徴主義」(サンボリスム)思想の構想と表明であるとぼくは思う。〕

 夢想は、実存の現実化のための 積極的な条件 である可能性のあるものの空間である夢想がなければ、実存は、単なる現存在現実の狭さに束縛されたままであり、主観-客観-分裂のなかでただ事物が暗号となることによってのみ感得されうる「存在の現実」(die in der Subjekt-Objekt-Spaltung nur durch das Chiffrewerden der Dinge fühlbare Wirklichkeit des Seins)が、欠けることになる。夢想によって眼は自由となり、存在を視るようになるのである。夢想がなければ、〔「無限」ではなく〕「無際限」(endlos)の現実である現存在は、褪せた死せるものの国である。しかし夢想は、経験的現実に関するあらゆるただの知と相対しながら、もっと深い真理を把持するのである。
 夢想の内容(die Inhalte)は、自らの基準を自分自身に持っているような根源的確信 においてこそ、眼の前に立っている(stehen vor Augen)。そこでは、理由や目的からの吟味というものはけっしてない。手段にされると夢想は自分の本質を奪われてしまう。夢想のなかで存在が現前しており、この存在から現存在が私にとって意味づけを得るのであって、逆ではないのである。
 夢想のなかで私は、夢想の内容が世界内での歴史的規定性をもつ愛する行為と結合して 私に現実的 となる限りにおいて、私の現存在の超感性的由来を確認する。絶対的意識は、夢想として、「存在の根底」(Seinsgrund)の中へ迫り入る。この「存在の根底」の中で私は、決断の瞬間においてであれ、行為の恒常性においてであれ、生活方針においてであれ、世界現存在においてであれ、不断に現実的に存在する のである。ここで夢想は、自己沈潜という想起と静寂として(in der Erinnerung und Stille des Sichversenkens)あるのである。

〔このひじょうに印象深い、上の最後の段落を読んで、嘗てぼくはこの原典箇所の余白に、つぎの言葉を書きこんでいる(そのまま):「詩の世界の領域。ヤスパースの思想は、リルケ的世界のGehaltをも、このPhantasieの領域において取り込み、場所を与えているのだ。」 リルケのみではない。ヤスパースのこの箇所は、リルケと或る類縁性のある思想者を、「私とは私の過去である」と言うマルセル、はじめてフランスの地を踏み、自らの根源的で神秘な運命を独白する高田博厚、森有正を、必然的に想起させる。

 夢想は私に、「完成された、自らの中に安らう存在」(das Vollendete, Insichruhende)を経験させる。〔das In-sich-ruhende (ダス・イン・ジッヒ・ルーエンデ)。この言葉の下にぼくは、「リルケ的な女性的本質だ」と書きこんでいる。〕 限界状況のなかでは私には、一切が引き裂かれ、不可能で不純に見える。夢想のなかで私は、「存在の完全性」を「美」として経験し、さらに、多分向こう見ずな敢行であろうが、おぞましい破壊されたものすらもの「美」を経験する。なるほど後者のような「美」は、現存在の意味においては非現実的なものであるが、絶対的意識である愛から観れば、欺瞞ではないのである。「理念」「実存」「超越者」として現実的であるところのものは、夢想にとっては、「美」として謂わば知覚可能となるのである。

〔遂に「美」が比喩でなく登場した。「夢想」にとって「存在」は「美」として顕現する。「美」は「在るもの」である(高田博厚)、という認識は、ヤスパースにおいても真である。そして、「徹底的に倫理的」と云われるヤスパースの哲学において「美」がこのように認識されていることは甚だ重要であり、彼においても、ヴィトゲンシュタインの言うように、「倫理(学)と美(学)とは一つ」なのである。余白につぎのように書きこんでいる: 「ここでのSchönheit【美】の意味に注意。下のanschaulich【観想的】とgedanklich【思想的】とを共に含んでいると考えられる。つまり、Gedanke【思想】すらもSchönheitなのだ。」
 高田博厚の「人間主義」は、その「美」の認識の態度も、ヤスパースの「実存哲学」のそれと、相通底する「魂主義」において、深く重なるであろうことは当然である。影響の有無の問題ではない。両者の同一方向性は、例えば、レオナルドと対比させたミケランジェロにたいする両者の評価態度においても、みられるであろう。むしろ、実際には各々の間に確かめられるであろう「美観」の相異ならびに「美」そのものへの態度の相異こそ、ぼくには興味がある。
 とまれ、美的観想(夢想――「美」を当体としない夢想は、おぞましく堕落し破壊的な空想であるしかないだろう。「美」は、したがって、「実存の自由の形而上的秩序」を意味するものであり、何らかの「存在との連繫」の許にある――を「実存すること」の積極的条件であると自覚することによって、ヤスパースは、きわめて瞑想重視のマルセルの精神とも繫がるのである。誰が瞑想的で誰が能動的かといった対比は問題でない。各々が「夢想」を実存的に重視するなかで、その「夢想」そのもののなかで、ヤスパース、マルセル、高田博厚が、いかに其々の特徴を現わすかにぼくは注意する。〕

 夢想は、観想的(造形的)あるいは思想的(思弁的)に自らを遂行する。この二つの場合とも、客体化した構築物は、それ自体で夢想の完成した内容ではなく、ただ夢想の言葉(Sprache) にすぎない。眺めること(Anschauen: 直感、観想)だけによって私は「芸術」(Kunst)の諸作品を経験するのではない。私は、芸術作品のなかへ入って変容し、観想しつつ同時に観想を超えでている。観想が現前させることなしには何ものも存在しないのではあるが。〔一方、〕 私は、ただ思惟することだけでは、どんな「哲学」(Philosophie)も〔謂わば〕占拠することはできない。それができるのは、ただ「我有化」(Aneignung)〔アンアイグヌンク;自分自身の根源から自分のものとして消化し血肉化すること〕においてのみである。この「我有化」において、思惟は、思惟不可能なものを告知(伝達)するのであるが、この思惟不可能なものは、自らの諸契機の各々を、思惟されるものによって謂わば代理させているのである。「造形的(形像化する)(bildend)夢想」は、「存在の諸象徴」(Seinssymbole)としての諸々の形姿物(Gestalten)のなかでの生である。「思弁的(spekulativ)夢想」は、「存在の諸確認」としての諸々の思想(Gedanken)のなかでの生である。―

〔「芸術」と「哲学」。ともに「夢想」のなかでその内実が汲まれるものであり、謂わば夢想の両翼である。〕

 「無拘束的(放恣)な孤立化」(unverbindliche Isolierung)という危険によって、絶対的意識としての夢想は、両義的(zweideutig) となる。〔すなわち、〕 夢想は、最も深い啓示であり得、そして、壊滅的な欺瞞であり得るのである。

〔verbindlich: 或るものに自らを自律的に拘束する忠実さを、意味する。したがって、unverbindlich は、そういう謂わば倫理的歯止めのない、根なしで放恣な(それゆえ抽象的自己孤立をもたらす)態度を意味する。〕
ヤスパース哲学の核心は、いかなる状況にあっても魂的充実を生む内的行為としての思惟であり、決断的実践を強調する倫理主義という半端な見方は壊されるべきである。瞑想の超越的充実なくして行為の実存性は生れない。人間存在への忠実が問題なのである

 夢想は、実存の歴史的現前に感触(treffen)することがないかぎりは、ただ可能的なもの であるゆえまだ一般的なもの を視ているだけである。この〔実存の歴史的現前との〕結びつきがなくては、夢想はただ実存の可能性の空間を視ているだけであるということである。その場合、夢想はまだ遊戯(Spiel)であるにとどまっており、遊戯として夢想は、「歴史的現存在における存在」〔現実的に受肉した本来的存在〕に思いを馳せ予感しているのであるが、夢想自身の想いみている存在を現存在の現実に刻み込むことはしていないのである。それゆえ夢想は、可能的なもののなかでの観照的(kontemplativ)充実として、誤導の危険があり、現存在の堅い(厳しい)現実を覆い隠すヴェールとなるのである。夢想は、自己満足的存在としての形像と思想との世界の中での生へと誘惑する。
 なぜなら、可能性 という無拘束的世界と、実存的現実 への沈潜との間には、区別が常にあるからである。詩文学、芸術、哲学、人間の偉大さの歴史物語、これらにおいて見出される夢想の対象としての諸形姿と熱烈に共鳴することは、現在的に決断する実存の「超越すること」としての自己遂行とは、なにかちがったものである。このような夢想の熱烈共鳴においては私は自己を忘れているかもしれない。実存の現在的決断においては自己の現実というものがある。私が〔単なる夢想の〕誘惑に負けると、私にとって二つの世界の並存が固定化されることがある: すなわち、ひとつの仮象世界においては私は高揚するが、もうひとつの現実世界においては私は自分を軽蔑しているのである。その場合、私は事物を抽象的に絶対化する一方で、空想的可能性のために私の現実を破壊するのである。つまり、現実を充実させてその現在を偉大なものと観ずるということをしないのである。
 
〔つぎはまとめである:〕

 「信仰」と「夢想」の間で選択がなされるということがあってはならない。夢想なき信仰は、展開されないままにとどまるし、信仰なき夢想は非現実的にとどまる。しかし信仰と夢想の二つは、「愛」なくしては非真理(unwahr)である。絶対的意識が分析的に説明されるのは、ただ不適切な仕方でのみである。絶対的意識の諸契機は、各々孤立化したり対立し合って動いたりすることを許すものではない。






〔以上、「夢想」の項および「満たされた絶対的意識」の全訳。〕









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