このマルセルの告げる、本来的な音楽と沈黙との表裏的繫がりという本質的な比喩むしろ現実例いじょうに、「孤独」と「交わり」の繫がりを直接に気づかせることのできるものはないだろう。孤独とは、無欲に沈黙することができる平静さ、慎ましさの力であり、内的な独立性、主体性である。この沈黙はそれ自体では恰も無のようであり、ひとつの真理あるいは現実ですらないかのようであるが、沈黙を背景とし根源に感じさせないような〈音楽〉が、どのような魂に触れる、魂をよびさます力をもつであろうか。そのような〈音楽〉はむしろ雑音やお喋りであり、魂の忘却、魂からの逃避であろう。魂は沈黙の世界のなかに自らの故郷をもとめており、沈黙のなかに存在している真実なものを感知するために、「形」を創り得ようとするかのようである。それは、他者との真の深い交わりが、同様に沈黙の背景を必要とし、この沈黙のなかでお互いを見出すために言葉を交わすようであるのと同じである。孤独者は沈黙のなかで「形」を求めつつ己が「神」に当面するに至るように、愛する者たちは沈黙のなかでお互いを見出しつつ、二人を包み在らしめるこの沈黙の実体を-「神」を-感知する。そして、最も親しい語り合いと純粋な独白とは、互いを含み合うことを、高田博厚もガブリエル・マルセルもともに認識している:
《 この頃は対話(ダイアローグ)の美しさというものに引かれている。文章のいろいろの型の中でも、対話は詩と共に最も直接なものを持っている気がする。これには独白(モノローグ)の孤独の親しさと、一人の人を相手に心を開いた素直さがある。》
― 「地中海にて」第一頁(『フランスから』1950 所収) 高田博厚 ―
《 Le soliloque n'imite pas simplement le dialogue ; tout dialogue pour être fécond doit devenir à un moment donné soliloque, sans quoi question et réponse ne se rencontreraient pas ; la rencontre ne pouvant avoir lieu que dans un entendement ; c'est d'ailleurs par cette rencontre même que l'entendement se définit...》 p. 140
「独白は対話をただ模倣するだけではない。あらゆる対話は豊饒であるためには或る瞬間独白にならねばならない。そうでなければ問いと応答は出会うことはないだろう。出会いは理解の中でのみ起こりうるのだから。一方で、この出会いそのものによってこそ、理解は自分を定義するのである…」
《 Mais il peut se faire que, de plus en plus, j'aie conscience de dialoguer avec moi-même (ce qui ne veut pas du tout dire que l'autre et moi nous soyons ou même me paraissions identiques), c'est-à-dire qu'il participe de plus en plus à cet absolu qui est ≪unrelatedness≫ : nous cessons de plus en plus d'être un tel et tel autre. Nous sommes ≪nous≫ simplement.》 p. 146
「徐々に私は私自身と対話することを覚えるようになる可能性がある(これは他者と私が同一となることではなく、私にとって同一に見えるようになるということですらない)。これはすなわち、他者が徐々にかの絶対的なるものに、つまり≪関係不在性≫〔「関係」という概念そのものが止揚されている超関係性〕に、参与するようになるということなのである。私たちは徐々に一人と他者であることをやめる。私たちは唯≪私たち≫となるのである。」
― Journal métaphysique, 1927, Gabriel Marcel ―
〔01-20 11:31:10〕
21日は平日なのに ちょうど80名の方が訪れてくれました ありがとう (この言葉は自分のためには言わないんですよね)
羽田裕美「あの微笑みを忘れないで」PV - YouTube
〔22日0時 記す〕
117,871 25日23時半 117,968 27日0時(97 !!)