『形而上的アンティミスム序説』



 本書を私は学術論文のつもりで書くのではない。そういうつもりのものならば、過去において少なくとも自分自身にとっては既に充分試みた。そして単に分析的な(私の場合は哲学の)論究というものが結果において私自身にいかほどのものをもたらしうるか、或る種の失望感をもって確かめたつもりである。
 学術的研究の世界は、果てしなく開拓可能な世界である。そこに従事する人々の努力を私は尊重し、それに敬意を表する。私自身もまたその世界でなおいくらかのことをなすこともあろう。しかしこの世界の「果てしなさ」すなわち無際限さは、人の精神がそれにいわば呑み込まれてしまうならば、精神の足枷となり、本来の精神成長を妨げるもののように思われる。これは一種の「悪無限」であり、ヤスパース等の言葉を俟つまでもなく、そこに「学問(学術)の限界」があると言うことができよう。本来の精神成長を示すものは、真の創造のいとなみであると私は信ずる。これはなお私自身に欠けているものである。ただ創造の世界の方向は私にははっきりしている。そしてこれはこれで無限に歩まねばならぬ世界であろう。だが、この無限性は先の悪無限とは全く次元・本質が異なり、いかに小さな一歩といえども、いわば無限そのものがそこに映し出されているかのような充実と輝きを発するものである。それを認めるほどには私にも既に小さな一歩の兆しはあるようである。
 学問は尊い。それは知性の誠実さの発露であり、創造の足場を固める不可欠の作業でさえある。だが、少なくとも同時並行的に創造のいとなみを始めよう。創造こそが生に純粋な喜びと活気・力を与えるという真理は、ベルクソン等の言葉を俟つまでもない。本書は、探究が同時に創造でもあるようなあり方の、いかに拙くともひとつの証言でありたい、と私は願っている。そしてここでの創造とは、偉大な先人の「魂」との対話の敢行そのものである。なぜなら――今は次のことだけ言っておきたい――、双方の魂が触れ合うところにこそ「感動」があり、これが真の創造の根源であり本質であると私は確信しているからである。その場合、偉人が生んだ「思想」は、本来、彼の「魂」に触れる媒体となるものである。
 ところが、「思想」そのものの学問的歴史的重要性を認めつつも、その「人間」には真に親しみを感じ得ぬ、という場合の、なんと多いことであろうか。そしてそのような齟齬を懐きつつの思想研究は、結局、分析の次元に留まる研究であって、真に創造的な喜びを与えるものではない、ということを、私は自らにおいて全的に承認するに至った。そこには、単に仕事をその都度果たしたという達成感があるだけであった。
 (続)
 「はじめにあたって」二