嘗てわたしが学会で発言したことでもあるが、ヤスパースの「実存」と「理性」の「両極性」をいかに捉えるかということは研究者および関心者の間で常に問題となることである。つきつめればこの両極は一に帰するのではないかということが理論的反省的に問われる。この場合、実存の、超在への依存性つまり超越的受動性と、理性の、「交わりへの意志」と換言されるような意志的能動性とは、原理的に一に帰し得ないことを押えておく必要がある。メーヌ・ド・ビランにおける「努力」と「恩寵」の両極的相即性と同じ事情がある〔彼はこれによって「人間の生」と「エスプリ(スピリチュアリテ)の生」とを段階区別した〕。加えて敷衍すると、ヤスパースの実存は、限界状況そのものである現存在(世界現存在-Weltdasein-とも)を、現存在における「挫折」(Scheitern)にも拘らず超在との関係性において超越して自己充実を果たす、というような単純なものではない。『哲学』第三巻まで読めば明らかなように、最も深刻な「挫折」は、「実存そのものの挫折」なのである。これをわたしの紹介した論考でも示したのである。この最深の挫折は、実存の超越的自己被贈性(超在によって自己自身が自己に授けられ-贈られ-てあること)という本性そのものに孕まれている可能性である。この実存のダイナミズム、運動そのものであるその本性をきわだたせる論考こそが、ヤスパースの叙述意図を生かすものである。この点、日本の研究者は、ヤスパースに限らないと思うが、思想の生命を殺してしまうような図式的整理に陥る傾向がある。万事に言えることであって、何の欠如によるものか、日本人全般の問題である。「神」の問題(来世信仰の問題ではない)と日本人が思想において真剣に向き合い難い根拠もここに存している。

「日本では、西欧のように知識人の権威が確立されていない」のは当り前である。軽侮されている。どうしてかを熟慮すべし。


「思想は行動である」こと、「ものなしにはかんがえない」こと、〔アランの言う〕これ(ら)は同じことであること、そういうことがわかっていないのである。思想そのものが行動(action)なのである。字句や文献の上でまとめることが思想営為ではない。ましてやそういう整理された〈思想〉を実践に移すことが行動なのでは全然ない。日本でデモに参加するような知識人は、本来の行動も発言もやめている。彼等の参加は何の権威にもなりえない。真の知性者は、行動であるような孤独な思想営為に日々生きているが、一旦社会的要ありと判断した場合も、示威行為とは別の行動をとる。自分の思想に根源的責任を引き受けられるような確信と熱意と覚悟があれば、直に為政者に働きかけに単身赴くだろう。大衆と横断幕など掲げない。標語となったものはそれだけのものでしかなく もはや思想ではない。知性者の恥だとぼくは思う。結局、日本の学問界の思想営為の問題と同根なのだ。思想と行動が無残にきりはなされており、思想でも行動でもなくなっているのである。そういう連中に、「沈黙する知性」がどういう人間使命を帯びているか、真の「知性の行動」の意味とともに、その内実に想到できるはずがない。

 沈黙することを知っている知性こそは 真に行動する知性である。それは真に行動し得、発言し得る。沈黙の内実を生きているからである。







ヤスパース ノオト (694) :メッセージボードにも掲げてあるが、この機に読んでいただけたら幸いである。ヤスパースはじつに思想の懐の深く広い哲学者であり、限界状況そのものでありつづけた自らの生と尋常ならざる格闘を生涯することによって、人間経験の結晶である彼の思想を形成したのである。彼こそは真の意味での「希望」を生きぬいた思惟者であり、思惟が、本来的自己(実存)を獲得する行為そのものであることを、啓発し、証した哲学者である。この哲学の本来性(本道)の執拗な探求と自覚化において、マルセルは別であるが、他の実存思想家などはまったく比較にならない。










〔今日はメーヌ・ド・ビランの誕生日。彼の哲学こそは、「もの」に即するフランスの緻密な実感反省哲学の原点である。〕