この主題別編成欄「集合的容喙現象」に関係する文章を、閲覧の便宜の為、既出節より再録:




ヤスパースも著述で描いていることで、わたしも論考で指摘したが、人間は自分の意識状態や精神態度を或る一つの様態に固定することはできない。それが「時間現存在(Zeitdasein)において実存すること」の宿命、根本制約である。人間の自由も、すなわち愛も、事実においては解放と拘束をともにはらんだ運動(Bewegung)である。その全体においていかなる生が遂行されるかが問題なのである。悪による加害にたいして自分がどう生きるかという実存的問題においても、この特定の限界状況のなかで生じた決意そのものが、様相を不断に変転させる包括的な限界状況そのものによって、試練にかけられるのである。実存的運動の弁証法によって練られる ということである。悪による加害にたいし、ぼくはどう生きるか、ぼくはこの欄で証している精神行為で、いまの自分に出来るだけの積極的創造をもってこたえている。そのうえで、悪魔に裁きをもたらす気でいるがね。



ぼくは、ぼくに「事実的毒物」を(直接的に)強制した医師・栗原雅直を憎む気持はない。なぜならぼくの受けた被害は、それどころではない深刻なものであるから。そして彼はすくなくともぼくを侮辱はせず、対等に遇したからである。ぼくが憎み殺そうと思うのは、ぼくを精神的に侮辱する者である。これが人間の心理なのだ。侮辱することは魂を否定することである。戦場で無感情で殺し合っても、後で友情すら成立しうる。侮辱した者にはそうはゆかない。あるいは侮辱中傷と解しうる言動をとった者には。理性は平静を保たせるが、義憤によって怒りをも生じさせる。怒りと憎しみは異なる。心が澄んでいるから怒る。憎しみは心を濁らせる。失ったものがどんなに大きいか、その価値を感知する知性があるほど、悪を裁こうとするだろう。これを否定するのは偽善である。〔侮辱した上 殺害行為を指令した者をどうするか、言うを俟たない。〕
 






何とか日々自分を落ち着かせて生きているだけで いまのぼくは勲章ものだ。これをなお乱すような者はゆるさない。ぼくのいまの主な怒りはそこから生じている。どんなにぼくがせつない思いでぎりぎり(身体的にも精神的にも)生きているか、それを解さぬ言動の者は斬っている。ぼくが殺すと言った者はかならず殺す。いかなる道徳法則も法もぼくには無効だ。この心境がわかるか。ぼくのなかでは ぼくの「人間主義」と何ら矛盾しない。よほどの思いがなければこういう社会的に損なことは言わない。*「はじめに」を読まれたし。この欄はれっきとした事件の証言でもある。
 天はなぜこういう追い詰め方をぼくにしたのか、ぼくの魂を思っているのだとしたら。天が悪魔だったと見做すしかぼくには精神の対処の仕様がない。ぼくが自室で魂籠めて先生の本の精読と原稿執筆に専心していたとき、それはむりやり横から攻撃破壊してきた。天がゆるせと言ってもぼくはゆるさない。その悪夢が、ぼくの本来の生活のいとなみとは全く異質異次元の介入行為の具体的現実経験として、まざまざとぼくのなかに有るのだ。ゆるせるわけがないだろうが !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!〔NHKは自分達で当時会長者を糾弾し真相を暴き公開し、始末せよ。それがいちばんよいぞ。〕
  すさまじい経験として有る。この状況の異常さを語るとしたら大変だ。ぼくの本来の生活とはあまりに異質なので、すっかり記憶にあるが思い出したくないのだ。それほど精神性とは無縁なのだ。