実存することは限界状況経験である、ということは、それが実証主義的態度の絶対化において単なる世界の内に埋没することでも、また逆に、「交わり無く世界を欠いた神秘主義」(inkommunikable und weltlose Mystik)における世界超脱でもなく、限界経験の本質である「二重性」(Doppeltheit)における生、即ち「もはや単に世界の内に在るのではないが、しかし世界の内で自らに現象する限りにおいてのみ実存すること」である(II.208)、ということである。 「実存哲学は本質において形而上学である」(I.27)とするヤスパースにとって、神秘主義の世界存在経験との対決は、自らの限界状況思想を真の形而上学的存在探求の道に属するものとして打ち出すためにも、重要であり、この対決・批判を通して、神秘主義的存在経験を、自らの哲学の内に、高揚した瞬間において実存的決意となる存在確信として、我有化(aneignen)して取り込んでいるとみられる。――事実、実存的決意の内に、神秘主義的存在経験と同一の特質を認めることができる(即ち、被贈的存在確信における決意の根源的直接性)。――神秘主義において、存在経験の特殊的瞬間のみが有意味なものと見做されるなら、除外された「日常的生」(alltagliches Leben)の時間は、無意味なままそれと並行し、生活者の人格的分裂を引き起こす。かの至福の時間的永続は事実的に不可能であるから、「日常生活」(Alltagsleben)即ちその都度の具体的状況への参与としての世界内存在の生と、「世界存在の現象としての神秘的経験」と(II.208)を、相互に根源的に関係づける道が見出されねばならず、このような全体的生の形而上学的に有意味的な充実を目指して、限界状況の思想は打ち出されており、ここでは存在確信は、それに基づいて世界の内で実存的に行為と思惟が為されるところの決意としての能動的信仰となる。




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これを書いた頃のことをいろいろ自然と思い出していたが、二つの思いが判然としている。一つは、ぼくの周りの人間達は、教授達も含め、何とぼくより未熟な者達であったことだろうか、という、自信と尊大にみちた自他比較的自己意識であり(しかもぼくはいまでもこの尊大を、現在の自分のものでもあるものとして、正当であると肯定している)、ぼくは人間の価値を一身に体現しているのだという漲るような思いである。ぼくは既にベートーヴェンと同じ苦悩のなかで、強靭な意志力の緊張によって、思惟の言葉を紡ぎ出していた。二つめは、これはいま思っているのであるが、同時に、あらゆる人間は、ぼくと同様な魂(ヤスパース的には実存)の萌芽を宿しているのに、それがぼくのように開花していない、という、謂わば「可能的」な同胞感である。この同胞感は現在 絶望的である、周囲の人間に関しては、なぜなら(彼等は)悪魔の洗脳から解かれていないから。




ぼくの過去のヤスパース論考は、大学の学位取得論文もふくめ幾つかあるのだが、その一つの抜き刷りを或る大学教授に見せたら、渡欧後に書いたのかという意味の質問をされ、渡欧前だと言ったら、怪訝そうな様子をしていたのがずっと記憶に残っている。よくわかる。すでに欧文を下敷きにしたような文章なのである。相手の感じるようなことは全部ぼくは自分のなかでわかる(だから、このぼくに助言云々の類は いつもわらわせるのである。ぼくは常にそのずっと先を試しているのに、戻れと言うに等しいのだから。ぼくと他者との関係はいつもこういう具合であった。これはぼくに謙虚さが欠けているということでは全く無い。およそ世人は謙虚ということに関し無知である)。翻訳無しでひたすら原書精読しているうちに 向こうの言語構造をもつ思惟がぼくのなかで培われたのだ。