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再び再読し始めてみたが、文章がすばらしい。長年の経験と観察、反省思索が凝縮している主体としての人間精神の存在感が喩えようもないので、味読していただくべく、原文を提示した。これは無論、唯の美術通史の類ではないことは、直ちに伝わろう。大変な勉強の結晶としてできた文である。一語もおろそかにすることなく熟読し自分の内に刻んでほしい。
「最高の峠にのぼりつくまでの、待望と憧憬にみちた、より素朴で、技巧的に未熟と思える前期(プレ)時代のものがより魅惑的である」
「人間がもっとも深い美を生むときは、人間の意識と感覚が分裂せず、煩雑化せず、”自然”のように調和している素朴状態、直截で一元的に帰結しうる精神状態にあるときである」
先生はここで、自分の長年の経験思索の結晶としてにじみ出てきた語を、最初から説明なしで きわめて無頓着とも思える自然体で使っている。自分の思索をほんとうに生きてきたひとの文章というものはこういうもので、文自体が、「意識と感覚が分裂せず、煩雑化せず、”自然”のように調和している素朴状態、直截で一元的に帰結しうる精神状態」から生れている。
申し上げておくが、ぼくはいまの自分にできることをやっているだけである。ぼくも、「意識と感覚が分裂せず、煩雑化せず、”自然”のように調和している素朴状態、直截で一元的に帰結しうる精神状態」に生きたい。