《(・・・)僕はサント・オーギュスタン〔聖アウグスティヌス〕の「ただ独り語る神」「人間の為にではなく、彼自らのために、言葉をも、肉をも、天使の声をも借りないで語る彼。我々が愛するこの諸々の中にある彼」をこの時最も素直に感じる。判断的なスペキュラシオンが無くなる。〔*〕そして僕達の精神はそこで中心的になり命題を求めるよりも、むしろ多様に諧和の流れに委せ、放散的になる。》・・・




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前々節(十六)の引用文のつづきである。アウグスティヌスの学説や自伝(「告白」)を知っていなくとも、これは文脈内容から直に感得しうる、すべき、ものである。他者を意識した発話ではない、窮極の親密であるゆえにもはや独語と区別されない語り掛け、満ちた沈黙そのものの言葉。
 つづくぼくの解答の如き解説(解釈)を呈示するにさきだち、各自の自由な味読をしてほしい。

高田は上の引用文中に括弧づけの挿入文を加えている。省略していたがそれを紹介する(*の部分):

《(これはパスカル的であると同時にホイットマン的であるが、「神」を信じなかったマルティネが地中海で歌った詩にはこの宗教感が非常に現れているのを君は気づいたであろうか?)》


高田の「地中海にて」全文を紹介していないから、できれば読者みずから全文味読する機会があればよいとおもう。




アウグスティヌス「告白」第四巻第十二章
「もし魂がおまえの気にいるならば、それらの魂を神において愛せ。魂もそれ自体としては変動するもので、神においてはじめて確固不動となるのだから。」
「いったい、真理はいずこにましますか。いずこにおいて味わわれるか。心のもっとも奥深いところにおいてだ。 しかるに心は、そこからさまよい出てしまった。道を踏みはずした者たちよ、心にたちかえれ。」「神のうちに安らえ。そうすればおまえたちも安らうであろう。」

同第十三巻第四章
「じっさい、あなたはそれらのものを必要にうながされてお造りになったのではありません。あなたの善があふれてそれらのものをつつみ、形相を与えたもうたのです。それらのものによって、いわばあなたのよろこびを完成なさろうとしたのではありません。あなたは完全な方ですから、それらのものの不完全がお気にめさず、完成なさいます。完成されるとお気にめしますが、それは、あたかもご自身がそれらのものの完成によって完成されねばならないかのように、あなたが不完全であるからではありません。」
「造られた生命にとっては、「生きる」ことは、かならずしも「至福に生きる」ことではありません。それは、暗闇のなかをただよいながらも生きるのですから。この生命が至福に生きるものとなるためには、なお仕事がのこっています。すなわち、生命は自分を造ってくださった方にむきなおり、生命の泉のもとでますます豊かに生きなければなりません。そして、その方の光の中で光を見、完成され照らされて、ついに至福な者となるのです。」(山田晶訳)


嘗て鉛筆で傍線を引きながら全読したこの書をすこし探索してみた。後半の記憶論、時間論はあらためて興味を惹かなくもない。創造主がそのまま善なる神なのか いまのぼくはアウグスティヌスのように理想論を単純に現実論とすることはできないから、そういう種類の部分はなるべく省いた。イデア論的な態度はもちろん再解釈することはできる。そういう有意味な部分を記した。