「生きてきた」自我のイデーが、「対象」がその喚起的作用において象徴となることによって、触知し得るものとなる。象徴としての対象において、自我の諸経験が、「イデー」と呼び得る「形」を成すに至る。それは、自我と人生とが和解に達する瞬間でもある。作為なき自己了解という一つの純粋な諧和の世界がそこに開かれる。芸術創作の本来の意味も、また、作品が形を得るに至る迄の過程の難しさも、そこにあるであろう。高田は常々、「私にとって彫刻とは、自我が自我自身に向って行動することである」と言ったが、その制作行為が自我の象徴としての作品を生むに至るためには、人為が人為でなくなる程の「労働者の様な」長い職人修業的仕事の日々を要したのである。







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 きょうはこれで充分ではないか。よくぞ核心を抉出した文をぼくは著したとおもわないか。


 凝縮した文を味読してもらうために故意に少しずつ区切って公開している。