私の所有するフランス・ガリマール社1927年出版のガブリエル・マルセル著「形而上学日記」の表紙および内容(242-243頁)である。今日12月7日はこの哲学者の誕生日であるので、彼のこの代表著作の一節を紹介する(右頁上部)。私が読んだ本はだいたいこのように書き込み線引きで賑やかになっている。

 Je suis mon passé; cela ne veut-il pas dire qu'il y a entre mes expériences passées et mon expérience actuelle un rapport sympathique, mais étroitement lié à la fonction instrumentale de mon corps ? (ceci est d'un bergsonisme presque orthodoxe). Cette expérience globale qui est moi, mais qui, bien loin d'être objectivable, est plutôt la condition de toute objectivation possible, ne serait-elle pas l'élément médiateur qui seul permet à l'attention de porter sur soi, c'est-à-dire d'être ? Et l'impossibilité où nous sommes de définir ce passé-sujet qui rend la mémoire possible n'est qu'une autre expression de l'impossibilité où nous sommes de traiter cet élément médiateur comme un objet, de nous en former une idée.
 私は私の過去である。これは次のことを意味するのではないのか、すなわち、私の過去の諸経験と現在の経験との間には共感的な関係、ただし私の身体の用具的機能に密接に結びついた関係が存する、ということを(これがだいたい正統なベルクソン主義のものである)。このような包括的な経験が「私」なのであるが、この包括的経験自体は客観化しうるようなものではなく、むしろこれ自体はあらゆる可能な客観化作用の前提条件なのだ。ところでこのような「私」であるところの包括的経験というものは、「注意」という働きを自らに向けさせうる唯一の媒介要素、つまり「注意」そのものを在らしめる唯一の媒介要素ではないのか? 記憶というものを可能にするこの《過去-私》を定義することが我々には不可能だということは、〔注意を成立せしめる「私」という包括経験、〕この〔注意の〕媒介要素をひとつの客体として扱ったりこの要素の観念を形成したりすることが我々には不可能だということの別の表現にほかならない。〔以上私訳〕

 或る特定のものに注意を向けて理解しようとしたり思い出そうとしたりするとき、それが可能であるということは、過去であるような私の存在を前提し証拠だてて(証して)いる。しかしそのゆえに私はこの「過去である私」自体を、この同じ注意作用を以って知ることは出来ない。ただこの「私」を〈感じる〉のではあるのだが。ドイツのヤスパースが「私」についてほぼ同じようなことをかんがえ理解している。彼の謂わば未分化状態の「私であるところの包括者」(das Umgreifende, das ich bin)をマルセルは思惟しているとも言えるだろう。ヤスパースはだから自己という存在は認識(erkennen)されるのではなくただ覚知(innewerden)されるのだと用語を意識した表現をしている。この包括者概念を彼は幾重にも分節して呈示した。存在そのものである包括者と私自身である包括者に分け、更に前者を超越者(神)と世界に、後者を実存、精神、意識一般、現存在に分け、これらを究極的に統合する運動が理性であるとした。興味のおありの方はヤスパースの概説記述を参照ねがいたい。私自身はもう暗記しきっているがそれだけにここで繰り返す意志はない。マルセルの謂わば発生状態のじんわりとした思索反省を味わうことで充分である。
Bon anniversaire !  Monsieur Marcel.

ぼくもまだ知的作業が出来ることを確かめたいと思ったことと、こういうまめなことをやってきた人間がどうして人霊世界から潰されるのかという怒りを示すこと、潰された人間はこういう人間なのだということを示すためにこの節を設けた。すべてぼくは意識してやっているのである。 


参照 182 ガブリエル・マルセル影像 


要するに、或るものに注意を向けるという意識行為はそのつど特定の理解・把握を成立させるであろうが、この限定的成果を超えて常に、注意の主体と客体を媒介するもの自体は注意の視界から退くのである。注意は現象学用語で「指向性」(インテンツィオナリテート)と言ってもよいが、主体が客体を認識しようとして如何に客体に思念が届くのか、これはカントの純粋理性批判・超越論的演繹論の難問でもあった。原理的に究めようとするととんでもない晦渋な反省を強いるようになる事柄がある。いまの場合、注意作用における主観と客観の関係を成立させるものが問題で、これが〈媒介要素〉と言われるものなのだ、媒介であることによって必然的に注意から逃げてゆくものが。我々は音楽に注意を向ける(聴き入る)とき、音楽と自分の関係を成立させるものになど意識を向けない。そんなものをかんがえでもしたら音楽との関係は絶たれるだろう。忘却されることによってこそ媒介は媒介として機能するのであるが、ここで、対象の理解のためには常に過去の記憶や経験が働いていることを認めなければならない。それを承認するならば、〈媒介要素〉を認識しえなくともその存在、実在性を意識せざるをえまい。それが《過去-私》の存在なのである。そしてこの存在が直接認識できないことは、注意の媒介要素が注意を逃れて認識できないことと同じなのである。ヤスパース的に言うなら、私という包括者の中で注意という指向作用によって主体としての私と客体としての〈もの〉とが謂わば分裂対立することによって特定の認識が生れる。が、本来の根源的存在である包括者の私はその分退いて間接的にしか感知されない、これをヤスパースは「覚知」(innewerden)と慎重に言葉を選んで言った。外からでなく、内に在ることによって感知するのである。inne は「内で」であろう。「気づき」は常に内的にそれになったときにである。単なる特定物への注意を超えて、しかも具体的な〈もの〉への注意を離れることなく、これを通して、注意を成立させている存在実体を、注意の相対性有限性の自覚とともに、認識するのでなく感知する、このようにしてしか《過去-私》という存在実体には正当に触れ得ないだろう。しかしあらゆる認識はこの存在に基づいていることが理解される。具体的なものに関わり仕事し創造することが自己存在の〈実証〉の場であり道となるのである。このことが自覚されるのである。おもいのほか意味するところは広く深いのである。そしてマルセルはこのようにして感知される魂をきわめてなまなましく感知していた(それには彼の戯曲創作者としての創造経験が貢献していた)稀な哲学者であった。