高校野球も何時見納めかと思っているので、最後のところだけ見ていたが、つけっぱなしにしていたら次の番組が始まってALS問題を扱っていた。「ALSに喧嘩を売られたから『殺す』と思った」という患者の気持は全く僕の気持である。「こういうことはあってはならない悪夢だ」ということも。僕は薬によって人工〈半ALS〉と同然である。僕の場合は責任医をはじめ周囲の人間がぐるになったように僕の深刻な状態をとりあわない。「集団ストーカー」一味になっている。こうして電子欄を書いているが、日常生活は大変なものである。薬害という外作用なので進行性ではないが、〈半ALS〉と言っていい。言われた通り薬を飲んでいたら間違いなく僕は今頃廃人になっているか此の世にいない。周囲の人間とその背後にいる力は「殺人犯」である。この私の基本状況をしっかり覚えてもらっておかなければ困る。 そういう中で懸命に書いている僕の文章をきちんと衿を正して読んでおけ!(あなたのことではありません。)


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人というのはいろいろな生き方に同意する存在のようだ。ルオーでもあの孤独の道に踏み込んだのは好きで入ったのではなく仕事の必然から否応なしであった。自分の感ずると信ずるものに従うしか責任ある生は送れまい。そういう人間は少なくとも宣教師にはならないだろう。様々な魂の経験をするために人間は生きている。それが自分の経験になるのは、自分の感覚であると信ずるものに従う主体性がある場合である。この主体性のみが問題であって、客観的な真偽など、宗教家以外は誰も問題にできない。人はそれぞれ一歩一歩自分の判断に賭けて生きている限り、皆同様に生きる資格がある。その判断の積み重ねの結果が例えば失業・離婚・ホームレスになっても、誰が外部から批評できる? 「ほら、しっかり生きないとああなるわよ」、と外部者が言い合うことほど理不尽で残酷・不遜なことはない。当事者は精一杯自分の生を自分の判断で生きたのである。運がよい者がその運も自分の正しさの成果であるように誇るのは判断過誤である。日露戦争後の日本のように破滅の道が待っている。この点で日本人は普段の生活において主体的判断に拠って行為することの積み重ねを通して判断力を練磨してゆく必要がある。すぐにその都度の判断が究極的に正しいか否かはっきりさせたい欲求が、他者の権威を求めさせる。あきらかに世間主義・集団主義的他律が日本の敗因である。それが日本の運命だったと言っても洒落にもならない。日本では敗者がむしろ「人間」として輝いているかも知れない。世間とうまいこと付き合って成功者になった者などどんな分野でも、ただうまく生きたというだけのことだ。どんな次元のことで「成功」したのか、それをみなければ人間実質の規範となるかどうかは解らない。結果ではなく自分の判断によって生きる者に敬意を表する社会にならねば、日本は精神的先進国にはならない。森有正が「体験」と「経験」を分けた意味も解らない。判断力陶冶も責任自覚も(この二つは同一意識において保持される)できていない者が、銃を持たなければ身を守れない処に出掛けてゆく、これは何ら主体性ではない。

〔8.25〕