「 美経験の感動、その美に自らが参入しようと動く芸術創造の熱情、この、純粋であるだけ漠然とした、美への憧憬と衝動が、自らの魂的根源の探求への出発となる、と高田は証言する。それは、高い人間性のメタフィジックな根源を、美の経験と問いに導かれて、自らの仕事と存在を通して探求し確認しようとする道程に踏入ることである。「内部の秩序」とは、個人的であると同時に普遍的な、そのような形而上的次元へ開かれた、根源的人間性を示す精神態度のこと、言表可能な形式性を超えた魂的な人間規範のことなのである。美経験が存在する、故に人間の魂が探求されなければならず、そこにおいて普遍な絶対者が覚知されるに至り得る。これが人間経験の根本道程である。美なくして魂は目醒めず、魂の秩序なくして美は生れないからである。美の秘密であるこの「秩序」の覚知への道こそ、仕事しつつの自分自身との問答の過程である。」

いまこれを筆写していて、本当に自分の「全身」をもって魂の美へ赴くのだと本気で進んでいる邪念の一切無い純粋さをひしひしと想起した。これが僕なのだ。「全身」が在り、状況の静謐信頼が在った。当たり前の築いてきた生活が在った。いまぼくには「全身」が無く状況の静謐信頼、当たり前の築いてきた生活が・・・

おい、いい気な幸福者のブログを書いている者達よ、きみたちの何処に弱者への視点があるか、きみたちの「可能性を広げる」提案のどこに本当の絶望への眼差しがあるか。殺される目に遭わなければ「真実」に目覚めないだろう。嘗ての僕はよいのだ、上の様な境位に純粋に自己集中して自分のみの道を進んでいたのだから。きみたちは何だ、わずかばかり生きて経験したからといって、更に自分の道を行くのはよい、それならよい、しかしもう「発信」しようだって?自分達をすでに何様と思っている。謙虚に黙々と勉強をしている時期でなければならぬ、いろんな経験を、自分で味わうのが無理なら想像力で忖度しそれへの思いを懐かなければならぬ。根底に徹せよ。浮かれているような幸福者、それに見合った人生観ですでに人に「発信」できるとひとかどの者のつもりでいる者達、全部信用していない。