自著中「高田博厚における自己愛・ルオー論」第六章「内部の秩序」3。
「〔高田「ルオー論」第六章〕『内部の秩序』終節は、怒濤の如き密度で我々に迫る。我々も我々の今迄の探索をこれにぶつけて対決する。確認と理解がそうしてのみ生れる。持たざる者ははじき出される。
高田の意味する「内部の秩序」――芸術美を創造し得る我々の自由を可能にする、我々における内面的原理――は、我々の今迄の探索において想定してきた様に、やはり、我々の内なる超越的なるもの、我々にたいして超越的に働きかける力であり、我々の言う存在論的に拘束する力であるということが、当の終節から確認される。我々はこの力を、我々自身の形而上的実体としての魂と内在的意識としての心との間に想定してきたのである。我々の心が魂へ向かう長い歩みは、この、内面的な促しとして最初は漠として働く、ある方向性をもつ力、我々の自由を方向づけるひとつの秩序を、その根源と目標に関して見極めようとする歩みであるのだ。すなわち、自ら自身の歩みを通してその秩序と力の中に本当に入って行くことであり、己れが本当に純粋に己れ自身であるような境に直接するに至ることなのである。遂に達せられる「内部の秩序」とはこれであり、それは、その時はじめて我々が関係するものであるよりもむしろ、そこへと我々に暗黙裡に働きかけ我々を方向づけてきた当のものとして遂に感得されるものであるのだ。」
(下線は原文では傍点)
ハイデガーでもこれより迫真的な文章はなかなか書けまい。(更に続く。)
「〔高田「ルオー論」第六章〕『内部の秩序』終節は、怒濤の如き密度で我々に迫る。我々も我々の今迄の探索をこれにぶつけて対決する。確認と理解がそうしてのみ生れる。持たざる者ははじき出される。
高田の意味する「内部の秩序」――芸術美を創造し得る我々の自由を可能にする、我々における内面的原理――は、我々の今迄の探索において想定してきた様に、やはり、我々の内なる超越的なるもの、我々にたいして超越的に働きかける力であり、我々の言う存在論的に拘束する力であるということが、当の終節から確認される。我々はこの力を、我々自身の形而上的実体としての魂と内在的意識としての心との間に想定してきたのである。我々の心が魂へ向かう長い歩みは、この、内面的な促しとして最初は漠として働く、ある方向性をもつ力、我々の自由を方向づけるひとつの秩序を、その根源と目標に関して見極めようとする歩みであるのだ。すなわち、自ら自身の歩みを通してその秩序と力の中に本当に入って行くことであり、己れが本当に純粋に己れ自身であるような境に直接するに至ることなのである。遂に達せられる「内部の秩序」とはこれであり、それは、その時はじめて我々が関係するものであるよりもむしろ、そこへと我々に暗黙裡に働きかけ我々を方向づけてきた当のものとして遂に感得されるものであるのだ。」
(下線は原文では傍点)
ハイデガーでもこれより迫真的な文章はなかなか書けまい。(更に続く。)