自分の正常神経体で書いた自分の本を味読してみよう。他の何もかんがえずに白紙になって。いきなり中心部を開こう。『形而上的アンティミスム序説』「高田博厚における自己愛・ルオー論」から第六章「内部の秩序」3の直前の自分の文。

「魂と神、古来この二つは不可分のものとして直観されてきた。魂が神の似像であるのか、神が魂の投影であるのか。二つの関係がどのように感得されているのかは、高田においても、奥の院の如く深く微妙な問題である。主体性の次元において一の孤独と他の孤独とを結びつける、「普遍」の感得の奥深さにも通じる。我々を相互に結びつけるものは存在そのものでありそれを我々は愛と呼び神と呼ぶ、と言い得ても、己れの魂とともにある孤独の奥行きへの感覚を保持しつつそこへ至らなければ、人間観念の厚み全体を見失うであろう。それゆえ高田は、「神」へ至る道としての孤独を繰返し強調するのである。」

このようなのがぼくが2008年頃書いていた文章の一例である。同書所収の高田論処女作は2004年。現在からわずか10年前である。世界はぼくと共にまったく正常であった。あのころの気持ちにかえろう。同じ内容を理解してみよう。そこにほんらいのぼくがいる。