状況の異変が起こって以来、冷静に見てあまりの不思議さに、これは、ぼくは世間的には結構我が儘に生きてきたと見做されているかも知れないという思いもあったから、天が、すこし周囲のことにも配慮せよと諭す現象を起したのかとも思い、だからこそあの不審な隣室の住人(壁を透して「見られている」としたらそこからしかなかった)をも追及することなくこちらが引っ越したのだった。しかしいまはまったくそういう譲歩的な心境は無い。現象の内容があまりにひどすぎるのだ。薬によるぼくの身体の変質により、これまで積み上げてきた純粋な苦労の成果を断たれたことと、このことへの周囲の魂変質者達の徹底的な非同情は、現象にはいかなる生産的創造的な配慮も無いというぼくの判断を決定的にした。そこからぼくの、自分の理念内の善と外的実在の悪との対立という二元主義も、固い根拠を得ている。正しい道は、自分の内的な純粋理念に基づいて生ききり、外界の脅迫的暗示を圧倒することなのだ。幸運にもぼくのような身体変質の目には遭わなかった同質現象の〈被害者〉諸君に言っておく。外的圧迫に何らかの分を認めるだけ、きみの残された人間性は磨り減り、魔物に吸収されてゆく。それが奴等の目論見なのだとぼくは判断する。ぼくがこれを言うのは、実際、それを他において感知しているからだ。〈同胞〉ではもはやなく、薄情に無関心に高慢に、つまり自己中心的になってゆく。「自分のことしか考えない」のは、他律的人間のことをいうのだ。「自分の道ではなく他人の道を〈正しく〉歩く」者のことだ。主体性を無くした人間には、いかなる魂の同情心も無い。あたりまえのことではないか。