ストラスブール一景
 

若きゲーテが熱狂したストラスブール大聖堂、アルザス地方特有の家並みなどあるが、上はその一片である。清澄で静かな湖畔のような川のほとりに建つ住居群は歴史的に旧い木造式のものにせよ現代建築のものにせよどれもみな「素材」と「人為」と「環境」との調和が、色彩・形態ともに完璧に素晴らしいのである。フランスのこの知恵、知性はどこから生じるのか。街を歩きながらぼくは完全に魅了され恍惚と瞑想の状態に陥って自問自答していた。根本に、濁りを極度に嫌う透明さへの志向がある。光と幸福と、人間のイデアを、全魂で志向しているといったらいいだろうか。なんという甘美な国だろう! しかも懐かしい感覚があるのは所与の自然との調和への配慮からのみでなくもっと人間の幼少時の魂にまで遡るような人間性の素直さ、その幼児的素直さの肯定から来ている、それを意識的知性が承認しているところから来ている、とぼくには確信された。あのとき、ぼくはフランスそのものの「イデア」・魂を経験していたのだと思う。そうでなければあの形態・色彩調和は生まれない。ほぼ同様なことをやはり国境に近い街メッスでも経験した。輝く白亜の世界の美の完璧に意識が打ちのめされた(これはナンシーだったか)。ここに誇張は無い。経験したままを書いている。ぼくがドイツから訪れたことが、フランス経験を(ドイツ経験との対比において)必然的に本質啓示的なものとする効果があったのだろうと思う。ドイツ人観光客が多いのだが、地上から天国へ来たような悲鳴に近い感嘆を彼等は上げていた。ぼくもそうなのであった。

感覚はそれ自体の中に規範をもっていて、美と人間性を求める知性はそれに即することを学ぶのであろう。フランスで生きた高田先生のこの根本思想をぼくもぼく自身の経験から感知したのだと思う。フランスがそれを教えてくれた。 同時に、超越論的(「超」経験的)ドイツ思弁がどのように意義のあるものであろうとも、その特徴に象徴され得るドイツ的文化形態の致命的死角・盲点の存在が確かめられたとぼくは思っている。

〔言っておくが、ぼくの経験では、同じドイツ語圏でもスイス・オーストリアは各々独自の文化を培っており、ドイツとは「空気」がまるで違う。オーストリア人は自国がドイツと見做されることを否定し嫌う。
 ストラスブール(シュトラースブルク)がフランスかドイツかという議論は問題にしない。あの街並みはドイツには絶対に造り得ない。
 欧州で経験した驚きは、「国境」という人為的なものによって世界が変わる不思議さである。〕