ストラスブールの絵葉書の写真を撮ろうと昔の手紙類を繰っていたのだが、大変なことに気づいた。これがこの欄で一番重要な記述になる。僕の嘗ての交友関係(便りの束の内容文面から蘇える)の生活と、今の精神状況との、落差だ。世界史上こんなに悲惨な経験をしているのは僕しかいないと感じる。世界が根本的に違っている。これはあらゆる悲劇を超えた悲劇だ。嘗て当たり前のものとして呼吸していた人間関係の健全さが今まるで無い。僕の神経組織が薬で変質してしまって以前の知覚世界に生きていないということだけが原因ではない。僕と関係があった人間達自身の人間性が本質的に変ってしまっているのだ。他の問題どころではない。このことは繰り返し言ってきたが、今、ものすごく鮮烈にそれを実感している。当然自殺しているべきだ。実際、既に何回か自分の首を絞めたが死ねなかった。いまさら同じ事を繰り返すことはないが、改めてショックを感じている。薬害と周囲変質、この二つは決して別々の事象ではないという、証明はできないが確信がある。きみたちの誰も、このような経験をしたら耐えられないだろう。今の僕は模造品の世界に生きている。
〔 三重苦である。この二つに加えて「集合容喙」が僕の最後の内的自由圏をも侵すから(僕はどういうことを受けてきたかをまだここで殆ど語っていない)。僕を潰すこの徹底さは一体どういうつもりなんだこの徹底さは何故なのだという問いが、「世界」への僕の一番の問いなのだ。〕

この時、「高田博厚先生と共に」というこの欄の主題がどんなに悲愴な意味合いを帯びるか、よくかんがえてほしい。心根において厳粛さを解する読者しか本来残らないはずだ。

一度既に状況を知らせた知人は、「僕の状況をよく想像出来ているか」という問いに、「問い自体が無粋だ、勝手にせよ」と怒った。こちらは聞いてやっているのだという態度だ。状況を思惟することに真剣に徹することの出来ないこのような人は、およそあらゆる真剣さから無縁な人だ。こういう人がいたら去ってほしい。「興味」から「真剣」へ移行し得ない人は「人間」になれない。