この主題では第一義的に思想ではなく回想を書こうと思っている。そのなかで思想的判断におよぶことがあっても付随的結果であって最初から目論んでいるのではない。記憶そのものをたどることを動機とする書き方は精神をくつろがせる。体調がいまの状況なりにもとに戻るまでの間はこれを試みよう。先生の重量級の作品を相手にするのはそれからにしよう。一日一文この主題で書いてあとは静養することを原則としよう。思想的インスピレーションに取り付かれないかぎりは。もちろん、状況がまともだったころの思い出を書くのである。いまの状況の報告は全く別種のことである。
フランスから日本へ帰ったあとの話だが、日本で大変な学識者として有名な或る方(以前述べた人ではない)と面会の機会があった際、この方はわたしの拙文を読んでくださっていたらしいのだが、「あなたはカトリックですか」と真っ先に訊ねられたのが印象的だった。ぼくはどういうものがカトリックなのか未だに理解し得ていないからである(無精なので積極的な興味もない)。もちろんいかなる信者でもない。その方は、キリスト教徒か、ではなくいきなり最初からカトリックかと訊いてこられた。この限定的な特徴をいかにしてぼくの印象に感じとられたのか、ぼくのほうからお訊きしたかった。白状するが、わるい気はしなかった。あのような美の文化の基となった宗教伝統に、高田先生と共に精神的な敬意をぼくがほとんど習慣的に懐いていないことはありえないからである。ぼくが敬意を懐くのはイデア的な美を現している文化体である。教義に関してはむかしもいまも興味はない。これが他の宗派だったらすかさず「どうしてですか」と抗議の意識をもって尋ね返しただろう。個人的にプロテスタント系の人々からぼくはよい印象を受けていない。親和的なところがないのである。言葉や概念の上でうなずくことはあっても。まったく感情的な本音の感覚のような次元でしっくりこないのである。逆にカトリックの人々からは随分よい思い出をもらっている。ぼくの印象では、本音のところで教義から自由な人間性が生きているのを感じた。先日引いたルノワールの言葉の内容は随分本質的な意味をもつものなのだろう。先生の言葉で、「思想もまた人生と同じで様々な経験が層(クーシュ)となっている」という言葉があるが、ぼくも同意する。
フランスから日本へ帰ったあとの話だが、日本で大変な学識者として有名な或る方(以前述べた人ではない)と面会の機会があった際、この方はわたしの拙文を読んでくださっていたらしいのだが、「あなたはカトリックですか」と真っ先に訊ねられたのが印象的だった。ぼくはどういうものがカトリックなのか未だに理解し得ていないからである(無精なので積極的な興味もない)。もちろんいかなる信者でもない。その方は、キリスト教徒か、ではなくいきなり最初からカトリックかと訊いてこられた。この限定的な特徴をいかにしてぼくの印象に感じとられたのか、ぼくのほうからお訊きしたかった。白状するが、わるい気はしなかった。あのような美の文化の基となった宗教伝統に、高田先生と共に精神的な敬意をぼくがほとんど習慣的に懐いていないことはありえないからである。ぼくが敬意を懐くのはイデア的な美を現している文化体である。教義に関してはむかしもいまも興味はない。これが他の宗派だったらすかさず「どうしてですか」と抗議の意識をもって尋ね返しただろう。個人的にプロテスタント系の人々からぼくはよい印象を受けていない。親和的なところがないのである。言葉や概念の上でうなずくことはあっても。まったく感情的な本音の感覚のような次元でしっくりこないのである。逆にカトリックの人々からは随分よい思い出をもらっている。ぼくの印象では、本音のところで教義から自由な人間性が生きているのを感じた。先日引いたルノワールの言葉の内容は随分本質的な意味をもつものなのだろう。先生の言葉で、「思想もまた人生と同じで様々な経験が層(クーシュ)となっている」という言葉があるが、ぼくも同意する。