「内在する観念」ということで先生は生得観念(人間に生まれながらに、あるは理性の中に必然的に備わっている観念)を考え、そういう観念において捉えられた「神」を考えているのだと思うが、ここで、そのように哲学的に、つまり合理的反省によって〈整理〉された「神」理解(所謂合理論的理解)は、絶えずその発生的根源に向けて問い直される必要があるだろう。この点で、たとえばデカルトとパスカル各々の神観を、〈合理〉と〈神秘〉として単純に対立させることには慎重でなければならないとわたしは思う。なぜなら、「神」をほんとうに観念として済ませてしまえば、神を〈超脱〉して〈無〉の観念に至ることも可能で、事実、日本の先達はこれに至ることによって〈神を超えた〉と称したからである。ここから、エックハルト等の神秘思想の境地も真に理解できるとした。しかし、西欧の思惟においては、神が絶対なのである。これはキリスト教伝統にのみ帰する問題であるのか。或いは〈有への執着傾向〉だけの問題なのか。「人間」が掛っている普遍性を持つ問題だと先生は捉えた。それが先生の己れを支払った「理解」であり、〈日本人〉への「問いかけ」である。〈東洋的無〉擁護論者はつねに先生に批判的である。ぼくはこれは〈議論〉の問題ではもはやなく、まさに「人間」と「人間」がぶつかっているはずなのだと思う。各々が「人間の証」をたてる問題なのだ。この点でぼくの経験(の結論)を公開しておこう。ぼくは〈無〉擁立者に、先生の説得力・人間力に応対するいかなるものをもまったく見出さなかった、と。先生の引用はまだまだ続く。