・・・《あるいはまた、芸術家が作品によって思想を表現しようとする、とはたしかに言えるのであるが、そこの「現実」と「自分」と「思想」との間に、一片のパンと私の山海の珍味との間にあると同様の関係がある。これはひじょうに厳密な結(つな)がりを持っており、この緊密が正しく現れない時には、創作品や思想が概念に終るのであろう。私は「形而上」と「自分」の関係や「現実」と「象徴」の関係を理解するのに、私の経験が一指示となったことを感じた。これはゲーテの「原現象(ウルフェノメーン)」と「実感(エアレープニス)」と「詩(ポエジー)」の関係を意味するのであるが、私は自分の感得がベルグソンやプルーストの思想に近いことに気づいたのであった。》(以上『薔薇窓』第一部VIより)
プルーストおよび、プルーストが影響を受けたとされるベルクソンへの言及はよく解る。記憶・イマージュに物象的な独立性を認めたベルクソンの少し自然主義的ニュアンスを残した思想は、「私とは私の過去である」とするガブリエル・マルセルの形而上的思想にも、哲学的に純化されて継承されているとぼくは思う。先生の発想はひじょうにプルースト的・マルセル的だが、造形芸術家らしく更にゲーテの直観的自然思想にまで遡って自己の思想を照応させているのはさすがだと思う。「原現象」とは、直観され得るプラトン的イデア(形姿あるイデア)に近い、生命体の原型的原理であり、この点で、原理を直観されざるカント的純粋理念に求めたシラーと、眼の人ゲーテは衝突した。先生は、アラン・ジイドなどフランスのゲーテを讃仰する知性人たちと共に、ゲーテに近く、深い親和性を繰り返し告白している(「ゲーテがドイツに現れたのはドイツにとって奇蹟だ」とも言っている)。ここで「現実」「自分」「思想」とは、具体例の次元では「一片のパン」が「現実」、「私の」非意志的に想像する「山海の珍味」が「思想」、そのように想像させる神秘な経験の集積としての魂的(形而上的)「私」がここで言われている「自分」、に各々対応するのではないかと思う。芸術作品や思想が真実のものであるとは、「思想」が真の「自分」に迫り、かつ真の「自分」から生じて、そのことによって、この作用の触発媒体となっている「現実」がこの作用経験の「象徴」の如きものとなることであろう。つづいて言われる〈「形而上」と「自分」の関係〉〈「現実」と「象徴」の関係〉の理解とは、この、自己が形而上的自分に迫りゆき、乏しい現実が豊饒な形而上的真実を触知させる象徴へと転じるという、緊密な内的運動の会得であろう。ゲーテの「実感」(体験)はこの聖と貧とが表裏一体の真実経験であり、この経験の結晶的痕跡(レミニサンスの可能性としての「形」)が、作品としての「詩」の意味であろう。