《そこで私は興味ある発見をした。まったく自由な想像も自分に未経験の果てしのない飛躍ではなく、過去が詳細に織りこまれており、むしろ厳密な事実のみから生れて、一つの世界をなしている。そこでは自分の過去が圏を作っているのである。無尽蔵の材料をもって調理できるべき私のご馳走も、かつて人間が食べなかったような天上の珍味はこしらえなかった。かならず私がどこかで食べ味ったものである。過去における、あるいは過去の意味を私たちに作るところの経験がなくては、想像は実質性を持たない。経験なしに想像は生れない。想像は経験の純化状態であろう。自我意識がまだたしかに生れない幼年時のあの美しい想像や夢にそれが見られる。短くはあるが、まだ反省意識の網を通らないがゆえに、純粋単純な経験があのように強く美しい想像を創る。子供の頃魔彩鏡(カレイドスコープ)をのぞいてみた多彩の夢など、未知への飛翔ではあるが、幼年のうぶな経過や血の中に潜んでいるであろう未生前の経験がどれほどに広大に拡がり得るものか、未来に予定される無限とも思える「範囲」あるいは「規定」を示しているのではないか? 大人になってから、なんでもないありふれたものから受ける印象が、子供の頃の単純強力な感動を呼び戻し、そこに郷愁的(ノスタルジック)なほとんど絶対な美を感じるのも、同じ現象であろう。》
 テキストをそのまま全文紹介している。これはそうしなければならない。高田の他の著作文章の上にも繰り返しこのイデーの光は射しているであろう。いままでこの欄で述べ来たった内容もまたここから逆照されるかのように読者は既に感じておられよう。この己れを支払った人物のイデーの恩恵の前にしばし足を止められたい。