『薔薇窓』をお持ちでない読者のために収容所の基本状況の叙述を直接紹介する。
 《収容所に入れられると、一分先には死ぬかもしれないという対峙的な緊張はなくなり、外の世界の自由がないだけで、あとは一応人間の生活に戻った。けれども自分の精神も神経も一旦平常に返ると、局部的な不幸が私の全存在への重圧となった。空腹である。寝ても覚めても空腹が私につきまとい、どうにも動きのとれぬ運命力のように、昨日が今日になり、今日が明日に延びても、平生なものの中にただ一つのものが連綿として異っており、それに接触している自分の中のごく一部分だけがまた異常に働き、その刺激を先のわからない辛抱力で持ち耐えているのである。何時になったら腹一杯食えるかわからぬじりじりした空腹の中で、明日になったところで金が入るかどうか当てのない日が際限もなく続いた昔の貧困時代とくらべて、私は考えていた。これは自分の体力や神経が全部的に歪曲していない場合に、環境がもたらす重圧を自分のある一部分で支えている例である。この不幸から恢癒する術(すべ)そのものははなはだ簡単なのである。金が入るか腹いっぱい食えれば済む。一年半の後にいよいよ収容所を出てフランス国境に着き、国境警察で親切に御馳走になった時には、あの長い間の悪夢をけろりと忘れてしまった。それからパリに帰り、あのように夢想していたパリ料理にありついた時にも、拍子ぬけがして何の感動もなかった。なるほど一年半の私にとっては、料理の方に問題があったのではなく、私の空腹に事件があったのである。これは冒険の際に自分を賭けた事件とは異質のものであった。なぜなら生命が保証されている平常態であったのだから。そうしてこれは生命よりも、生きることにとってのより切実でより不幸なことなのであった。
 戦争は昨日終ったばかりで、ドイツは破壊されつくしており、なに一つなかった。占領軍が全力をあげても食糧の保証はできかねた。アメリカ軍はすべてを自国から持参した。収容されていた私たちもその給与食だった。入った当初は一日五、六百カロリー。それからようやく千七百カロリーにまで昇った。それでも外の自由な一般ドイツ民よりも多い割合で、近隣の村民から苦情がでた。二万数千人もいる収容所は自治制だったから、親分(ボス)が発生し、それが炊事係と闇取引をやるから、軍が出している割当も正直に私たちの口に入らなかった。しかし千七百カロリーでは栄養不良に陥っても、死ぬ心配はない。ただ激しい空腹の拷問に間断なくかけられている。これは世間の生活の中で、自分だけが貧に飢えていて、しかも死にきれない苦痛と同様である。死におびやかされるよりも、生きるための欲望に圧迫される方が痛切である。》
 このように具体的記述が延々とつづく。
 それにしても、民を思う国は絶対戦争を起し得ぬはずですよね。