ぼくは最終節を「信仰における分裂」とした。自己選択によって〈自己以外の一切のもの〉が無くなるのではないのだ。精神が依然として身体と一体の精神であるように、むしろ〈自己ならぬもの〉は自己の担う「十字架」となる。高田の「自分の内なる社会に属する部分の否定」は、それを負うて生きる根本態度の自覚へと直ちになるものであった(そこから国と同胞への逆説的義務意識が生じる)。だから先生〈自身〉においては国への裏切りも愛情の切捨ても本来無かった。窮極的に自己沈潜した自覚においてデカルトのように「自己」のみ肯定(他の一切を否定)しても、それは人間に必然的な「内的秩序」の自覚であり、それを宿命的に選ぶ行為(真剣な内省行為として)であった。「イデア(最も根源的な精神衝迫)に忠実な己れを、愛情を否定することなく選んだ」のである。さればこそ、小論において「他者への愛の切捨てではないか」という問いをだしつつ、同時に高田の自分の愛する者のための具体的行為をぼくは淡々と写し、読者に呈示した。真剣さ、真の誠実さは、すべてを贖う道を自ずから見出すであろう。思弁的に取繕わないことが条件である。その真剣さなくして「世界」がRosaceの光彩と影を放つことはありえない。光と影とは、これらを共に担う一途さによってのみ、人生において「一元化」され、親密な魂の証を産むのだ。