名高い一六五四年十一月二十三日月曜日のパスカルの「覚書(メモリアル)」で告白されている「福音書の神」――《Dieu d’Abraham, Dieu d’Isaac, Dieu de Jacobnon des philosophes et des savants.(「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」哲学者と学者のではなく。)――は、私に、神というものが人間の魂にのみ直接しているものではなく、人間の肉にも直接しているものであろうことを思わせる。神はイデア的生の根源であるばかりでなく質料的生の根源でもあり、したがって精神的愛の窮極であるだけでなく種族・家系保持のための性愛の根拠でもあるのであろう。高田の、イデア的神を求める魂的生を辿るうえでも、彼が人間の内なる根源的光を同時に「人間の愛」として告白しているだけなおさら、この振幅をもった愛の問題、愛情の実相を、彼においても直視しないわけにはゆかない。そこでは彼は、孤独な自我探求者であるだけでなく、恋人・愛人であり、伴侶・夫である。また子の父であり家の長・戸主である。想いだけでなく行いが求められ、イデアのロゴスへの服従だけでなく質料の法則への服従が要求され、それに相応の報いが課せられる。自己への誠意だけでなく他者への誠意が試される。どちらの極に神は居るのか? パスカルの告白はイデアリストを不安にさせる。フランス思想はデカルトとパスカルとを絡み合う二つの幹としてもつとは高田が繰りかえし筆にしたことだが、この両極の緊張のうちに神が人間にとって感得されるのならば、愛の問題にこそ、人も感知するカルテジアン高田〔例えば、宇佐見英治氏の指摘(註六)〕の、最も深い動揺と闇の淵源があるであろう。幼少時より高田の発想と模索を導いたのは、とまれかくまれキリスト教であり、それが告げた神の表象であった。彼はその啓示と信仰とにたいし最後まで慎重であり、謂わばその周りを巡っていたと言い得る。私はこの問いの提起を、ただ私自身にとって唯一の真に親密な魂の師と言い得る高田への肯定的な愛から、私自身への問いでもあるものとして、一蓮托生的におこなうのみである。私が模索するものは、両極の均衡あるいは融合の可能性である。受肉せる人間の魂が、己が霊と肉との融合、天の神と地の神との間での己れの均衡を、最も深刻に模索せざるを得なくさせるものが、愛情経験であろう。そして愛する他者への責任の延長上には、国家社会への責任が控えているとも言い得る。イデア的自我への誠意、純粋記憶への意志だけでは済まない人間課題が、愛の問題を起点として我々に露わとなってくる。人間の存在そのものが矛盾を宿しているのか。高田は最も痛切に身をもってこれを自覚していたであろう。

 

《自我内部の精神活動とは「社会」と「人間」即ち「社会悪」と「自我理念」との無限の二律背反(アンティノミー)である》。(「思索」一九七八、著作集第四巻、強調引用者)

 

故に、全的人間としての分裂を覚悟で「自我理念」に賭ける生を貫くことが、却って根源的に「人間」を護ることになるのを、遂に高田は見出したのであろう。その生においては、《「人間理念」の存在理由》(同)は、純粋自我――具体的歴史的な純粋記憶、純粋感覚の当体――への直接的誠意としての行動において集約的に証されるであろう。そこでは、文字通りの自己犠牲的行為は「人間」破壊でしかない。自己以外の「他」への責任行為は根本的に制約されている。この「分裂」をもちろん高田は自覚し、それの惹起する己が運命を運命として引受けていた。それは決して世の所謂幸福をもたらすものではなかったであろう。そこでは「社会」のみならず「愛情」もまた、「自分以外の他の一切」であったから。ただ自己の魂に記憶となって留まるのみであったから。

 彼の「人間」への忠実さ、想いの厚さ、誠意は、彼の存在に触れた者すべての心に不滅の印象を留めるものであった。その証言は無数である。彼ほど「友情」に深く高く生きた者は稀であろうと、意識的比較なしに言い得る。彼の「友情」は、彼の己れへの忠実さの厳密な照応となっている。ここにおいて彼の「人間主義」、すなわち「詩魂とイデアリスムとの一元化」は、蒼穹の華を咲かせている。孤独の深さがそのまま報いられている。

 しかし受肉的生における他の層域である「愛情」と「社会」は、夫々自我にとって互いに全く異なる性格のものとして迫り、全く違う意味で魂の「身体」となりながら、奇妙に相互に通底性を感じさせる仕方で魂の「運命」をつくりあげる。この二領域は、決して質料的自然の法則、生活の法則から人間を解き放たない生の要素の具現であるからであろう。倭建御子(やまとたけるのみこ)と弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)の物語の例を引く迄もなく、そこでは美しい魂が愛と責任のゆえに自己犠牲を求められる、そのような意志を求められる、根源的な不安を覚えさせるものがある。人間のイデアへの飛翔を阻むなにものかが、創造主の意志そのものの中にあるかのように。《デカルトとパスカルの「対立」が一つの泉から流れ出た二つの川である》(「森英介」一九八〇、著作集第四巻)ことの意味は、全人間存在にとってのエニグマである。高田が三十年来その絶作を書架に留めていた無名の哲学詩人森英介(註七)の、恋愛経験を契機としたカトリック帰依が暗示しているように。

 

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 (註六) 雑誌『同時代』第二次第三十九号‐特集 高田博厚‐(一九八一)参照。

 《高田さんの他の多くの著作を読んだ人は、高田さんがアランの系譜につながるカルテジアン――それもいわば筋金入りのカルテジアンであることに気づくはずである。高田さんはアランから「ものなしには考えない」思惟の仕方を学んだ。〔…〕》(宇佐見英治「『薔薇窓』から」同誌所収)

 

 (註七) 本名佐藤重男(1917-1951)。早稲田大学哲学科中退。自作詩集『地獄の歌 火の聖女』(一九五一、高村光太郎 序)を在パリの高田に託した。