仮に自分以外の人間達が馬鹿だと判断出来ても(万人にありがちなことであるが)、それによって自分の、人間にたいする義務が消滅するであろうか。これもぼくがここで繰り返し言ってきたことだと思うが、そしていまの高田博厚小論でも述べていることだが、相手がどういうレベルの人間かということに関係なく、また「レベル」など所詮判断し得ぬ架空観念であることを認識しつつ、自分の内なる「人間の理念」を具体的なその都度の相手に出来る限り投影して接することは、自分の理念そのものを護ることであり、これが「礼儀」の根源なのであることを自覚すべきだ。どんな人間も「可能的人間(人間の可能性)」なのだ。これを否定する者はどんな次元の「希望」をも否定する者だ。この希望を否定しないので、ぼくはあいかわらず「お人よし」であるが、それでいいのだと思う(怒りを発するのは懐く希望の裏返しだろう)。〈高田小論13〉を見よう。「知性」とは「理念」をもつことである。この理念は魂的「孤独」において自覚される。孤独は、《なにか本当なものを人生に求め追い、それに役立ち参画したいと思う》者の必然的な経路であり、理念はその独立的志にとってのみ自らを現わすからだ。この理念に忠実であることが知性行為である。それは平和スローガンなどになる前に、厳しい自己吟味を要求する。他を批判する前に自分の実体を内省させる。これは自虐的自己帰罪の倒錯行為などではなく、自分の内的態度の緻密な自己規定であろう(これを先生はデカルト的にやったのだ)。これが出来ていない粗雑な者が実に多く、周囲に混乱を及ぼしている、とぼくは思う。このような「知性」は、社会的政策行為より前に人間理念の直接表出である芸術行為に親和的であるのは当然である。アランがデカルトのコギトに「最も強い拒否する力」を見たように、理念(理性)への真の忠実は、高田先生の為した「自分のなかの人間でない部分を否定する」行為としてまず現れなければならない。デカルト・アランの「情念論」の要諦を先生は自らに即して実践したことが気づかれる。アランは芸術を情念の自己統制と見做すことにより、精神理念の具体的自己表出として捉える道を開いた、と言い得る。先生は自分自身の道を通ってこのアランの緻密な思想を照応的に理解するに至っただろう。「美」が何よりも魂の理念に従う人間秩序を直接に示す。