ぼくがいまここに書きたいことは、はっきり先生のイデアリスムの信仰と言ってよい人生態度(229 最後の引用群に如実)は、苦しく長い先生の人生経験から、そこでの《自分の中に潜む熱情の根拠》‐何が自分をこんなにまでして駆り立てるのか‐を自ら反省凝視して至った、自分の意志の根拠、意志の向かう当体の自覚だったのであり、毫も現実を離れた夢想のひとりぎめの産物では無かったということである。その程度のものなら、生の荒波の中でとくにひとたまりもなく放棄されていたであろう。逆に生のあらゆる試練は、「人はパンのみにて生くるに非ず」という言葉の真実であることの当体を、先生に見極めさせた。苦難も、心からの愛情さえも、「放棄し得ぬ魂のありよう」から先生を解かなかった。だからこれじたいが、もう「運命」というものの定義そのものではないか。これが真の「信仰」でなければ何をもって信仰というのか。信仰は与えられるものではない。「自分」の中に「在る」ものである。「人生」はそれを見極めさせる、もしわれわれが人生にふさわしい者であれば。他に容喙する者は既に自分を失っているからである。なぜきみは、「自分自身であろう」としないのか。それは本来孤独なものだ。《自我の熱情の純粋さ》は単なる《熱情の昂奮》にはない《勇気と精根》を要する。無償の英雄などいない。英雄になるためではない。きみも重視している「知性」はそこにしかきずかれない。