ぼくはフランスの文人的哲人アランの実践したプロポという短文の随想的考察録の作成執筆、これを日々積み重ねてゆくという営みに手堅い人間行為の魅力を感じていたので、これを範とイメージして書いている。ぼくには夥しいこれから書くことと既に書いたもの(自分の為の覚書や手紙通信の写しとして溜めている断想・判断や状況報告)がある。これらを公開可能な形にして公表すれば、とくにぼくが経験した異常状況を、事実として世に伝えておくことができる。「事実」である保証は、ぼくがでたらめや無批判な自分の思い込みではなく起こった事象のありのままを努力して叙述しているのであることを、ぼくの文そのものから判断し納得してもらうことにしかない。ぼくを信じて、などとは、あまりに経験してきた事象が切実過ぎて、言うのを思いつきもしない。
 中心生命は、高田先生とぼくの思念・感情の照応を書くことである。これを芯として、このぼくの照応行為の慎ましく真摯な個人的営みが、いかに酷く得体の知れない外力から切断されたか、そのことをも、先生が社会悪である戦争を自らの魂の境位から同時に告発するのとおなじ本質において、こちらも照応的に、魂の闘い・戦いとして叙述告発せざるをえないだろう。この叙述の「秩序」を、しっかり意識しておいていただきたい。ぼくのすべてのその都度自由な叙述は、おのずからのような自然さをもって、この秩序を離れていない。

 さらに書き続けつつ同時に、機種にかかわりなくわたしのすべての読者にこれまでの文も読みやすく読んでいただくために、文字サイズを改めた再呈示を、極小文字だった文の範囲で、遡逆的に試みている。そのため新旧の文が時系的に交差するが、(再)標記の旧文は却って上から順序よく読めるようになっている。新旧文の相互反響のなかにも、わたしの思想が一貫していることを再認されるだろう。