ぼくの形而上的アンティミスムはひとつの存在論的な境位であるつもりだ。「存在論的」と言うのは、人間が誠実に思索し生きようとするかぎり、必然的に当面するような或る「構造性」を意味している。つまり、誠実さにたいして向こうから立ち現れてくるようなひとつの「秩序」を。すなわち、われわれがほんとうに自分が「存在している」と実感出来るような境位(境地と位置の融合語)・次元は、われわれが任意に、自分勝手に作り上げ発明できるようなものではなく、それ自体われわれを「規定」してくるような「自立性」をもっている、という気づきと確信を、この「存在論的」という形容は表わしているのだ。その自立的な当体、理念として思念されるのだがそれ自体われわれの「存在すること」を規定してくるような自立性をもった当体が、「神」(創造主ではない)を意味するとぼくは思う。そしてこれが高田先生が生涯対面し続けた「神」であるとぼくは理解している。それが感ぜられるかぎり、先生の作品(造形・文章)と生そのものは、形而上的な「証」(あかし)であると言い得る。何の? 人間の魂の。魂の自由の。生来思索家である先生は、内なる導きの幸運によって、学者ではなく自ら芸術家となることを決断することによって、自らの魂になりきり、本物の思想家となった。その思想本質をぼくはこのぼくの思想理念によって表現している。学説や主義の次元を超えた、人間の運命的な思想なのだ。先生の存在そのものが、そしてぼくの存在そのものも、この思想の表現であり、そうあろうと誓う。「実在する」悪魔を殺すために。