創造主というものはどうやらたしかに「全知全能」らしい。しかしこれが「腕力・知力」を意味する限り、全く「善」を意味しない。「全知」とはどういうことか、「全てを知っている」ということなら何でもないことだ。どういう「観点」から「全て」を観ているのかということが問題なのだ。ヒトラー並みの独裁者の観点なら、物的心的に人間を服従させ支配するために必要なあらゆる要素をその「知」から選択するだろう。あとはその知を利用して力に変換する技術知の問題となる。あらゆる心理学的効果の法則性が利用される。何ぴともその前では無事安泰でいることは出来ない。一度特定の人間(達)を「悪」に仕立てようと決定すれば造作もないことだ。悲しいかな、この生物世界を造った存在の観点は、われわれ人間にとって最も精神的に低次元のものでしかない。「全体の存立発展」それだけだ。しかしそれ以外に「社会」の本音もあるか? あとは虚飾偽善である。最も低次の人間発想と創造主の観点とは直接に通底しているとぼくは確信している。そうでなければ此の世の不条理は起らない。あらゆる「弁神論」は空しい。それは「神」の無い所に神を求めている。高潔な為政者は常に自己矛盾に引き裂かれているだろう。「存立のための戦争」だけでなく「名誉のための戦争」もあるだろうか。「人間の独立」のために。しかしそれもじきに自己保存の力学に巻き込まれることを知る。その暴力の世界の中で、自覚的な魂は何に賭けたらよいのか。「人間を裁く」資格も権利も無い創造主には先ず自分の無限悪を裁けと言っておくしかない。先生の態度のなかに在るべき魂の在りようを学ぼうなどとぼくは言うべきだろうか? ぼくはそれを知っている、先生の態度を。それをここできみに繰り返せばよいのだろうか? ぼくの状況は或る意味で高田先生より苛酷である。少なくとも先生はぼくのように理不尽な死刑判決を創造主あるいは世界全体から受けてはいなかった(判決文や直接の意思表示はないなどといっても状況は全く同じことである)。この世においてぼくは先生とは比べようもなく無力である。それでもぼくにのこされている道は、ぼくの想念のなかで先生に一歩でも近づいてゆこうとすることでしかない。その一心で書いているのだ。しかしこの一心さすらも瞬時に嘲弄する此の世は無慈悲な魔物そのもので恐ろしい処だ。人間の魂への敬意というものが全く無い。完全に絶交すべきなのに多分最後まで侮辱的につきまとう相手なのだ。ぼくは死んだら此の世を破壊する怨霊となるだろう。真っ先に「創造主」を絞め殺す。それだけのことをこれはしているのだ!!!! 今この生き身のままでは力が無いから静かにしている。これの無限悪に比べたらどんな人間の「悪」も無以下だ。ぼくは必ずこいつを殺す。そう執拗に仕向けたのはこいつ自身だ。そういう怨念がなければぼくは生き耐え得ない。きれいごとでは絶対に済まさない。きみ、此の世の支配原理は、きみは目をつけられないから気づかないだろうけれどもね、魂への配慮などとは本心で全く縁もゆかりも無いものなのだ。それどころかそんなものは気づき次第全力で否定し掛かってくるよ。「おもしろい話をどうもありがとう」などで済ますような次元にだけは堕ちないことだ。ぼくはこの書くことによって先生の精神を確かめてゆくという行為を続ける。ぼくのために。だから見かけの続きぐあいなど犠牲にするかも知れない。しかしそれがいちばんよいことなのだと思う。